第壱話『天使』


「じゃあ宿題を今から書くから、次の授業までに忘れずに解いてくること」
 初老の数学教師の声、それに続いて白墨が黒板を叩く音が聞こえ出す。
 クラスメイトの中でも真面目に授業を聞いているのは半分ほどだ。あとの半分は他の誰かと喋っているか、あるいは夢の世界に旅立っていたりする。
 いつも通り、そう、何事もない日常の光景。
 たとえ世界が不況だと言われても、首相が代替わりしたと言われても、それは学生という身分にある彼らに直接関わってはこない。いずれは就職難という形で降りかかってくる現実だとしても、今はまだ対岸の火事に過ぎない。
「平和だ」
 少年――染ヶ谷そめがや貞彦さだひこは誰に言うでもなく、小さく呟く。
 この広い世界の中、平和ではない場所など腐るほどあるだろう。そこに住む人々は平和を望んでいるのだろうか。あるいは、平和ではないことが日常となり、平和を望むことすらないのだろうか。そこまで考え、貞彦は首を振る。そんなことを考えても意味はない。
 ただ、思う。平和とは、それほど良いものなのだろうか、と。
 この考えが日本という平和な国の平和な時代に中流階級の家に生まれ、貧困に困ることもなく生きてきたからこその傲慢なものだという自覚は貞彦にもある。
 だがそれでも、平和というものを好きにはなれなかった。
 否。彼が嫌うのは平和ではなく平穏、そしてその日々の中に生まれる退屈だ。
 いっそのこと、この教室に隕石でも降ってくれば面白いのに、そんなことを思っていると、その肩を叩かれる。
 何事かと思い、右へと振り向くと、そこにあったのは貞彦にとってそれなりに見慣れた顔だった。
 千堂せんどう美樹みき
 彼女は有名だ。女子剣道部の副部長を務め、実際に試合をすれば部内、それどころか男子や顧問ですら敵う者はいないという。
 しかし男子と見紛うほどのゴリラ女かといえばそうではなく、胴を食らえばそのまま吹き飛んでしまうかのように華奢な体格をしている。
 器量良しと万人が認めるであろう容姿に快活さを表すツインテール、人見知りのない性格もあって、男女問わず人気は高い。
 貞彦と彼女は特別仲が良いということもない。しかし一昨年、クラスが一緒になった時以来、彼女の席位置が周囲八席から離れたことがなかったため、それなりに言葉を交わしたりはする間柄だった。
 そんな環境も男子連中からは羨ましがられたり妬まれたりもしたものだが、この歳になって隣の席がどうのこうのというものでもないだろうと貞彦は思う。
「何か用か?」
 周囲は様々なことを吹聴しているものの、当の貞彦自身は千堂に対してさしたる感情を抱いてはいない。話せば他の連中と話しているよりは面白いとも思うが、その程度である。少なくとも他の男子たちが抱いているような恋愛感情ではない。
「いや、何か思案に耽ってる様子だったから。何を考えてたの?」
「隕石でも落ちてこないか、なんて思っていただけだ」
「隕石って染ヶ谷君ねぇ……」
 貞彦が率直に答えると、千堂は含み笑いを漏らす。
「まぁいっか。宿題、ちゃんと写しておきなよ?」
「……気が向いたらな」
「明日になって終わってなくても見せないからね、タダじゃ」
 そう言って、千堂は親友――と千堂自身が明言している――三嶋の元へと歩いていった。
 皆が帰り支度をしつつ友人と雑談をする中、貞彦は手早く帰宅の準備を終えると、鞄の中から本を取り出して読み始める。
 どうにも流行に乗ることが出来ず、人並みの趣味を持たない貞彦の唯一の趣味といってもいいのが読書だ。特別どんなジャンルを集中して読むということもなく、それこそ幼児向けの絵本から雑誌、純文学、ライトノベル、官能小説、各種専門書まで何でも読む乱読派。
 今、貞彦が読んでいるのは高名なSF作家、ジュール・ヴェルヌの地底旅行。勿論貞彦も何度も読んだことがあるものではあるが、良い作品は何度読んでも面白いものであると貞彦は思う。
 どんな本でも読む貞彦だが、昔はSFやファンタジーといったジュブナイルものを特に好んで読んでいた。
 スリリングで痛快な物語は、それを読んでいる間、平坦で退屈な日常とは別のものを見ることが出来たからだ。
 だが、最近はそれもない。勿論、作品自体を楽しみはする。だが物語は所詮フィクションで、この日常は決して揺らぐこともないほどに堅固なものであると知ってしまったから。
 帰りのSHRが終わり、貞彦は本を閉じる。
「今日もまた、何もなかった」
 小さく呟く。
 学校という退屈な時間が終わり、放課後という名の、より退屈な時間がはじまる。
 だから、と。
 貞彦は一つの決断をした。恐らくは人にとって至極重大な決断を。





 深夜。
 眼科には大都市圏とまでは言わないまでも、ベッドタウンとしてそれなりの規模を持つ善稜ぜんりょうの街の生活の灯りがある。
 風が吹く。四十階建てのビルの屋上の風は、俺の身体を容易に吹き飛ばそうとする。
 高所恐怖症の人間ならば、もとい、そうでなくともこんな場所に立てば少なからず恐れを抱くものだろう。
 だが、貞彦の心には欠片ほどの恐れすら存在していなかった。
 一歩、もう一歩、と屋上の縁へと近付いてゆく。死、という存在へと。
 間近に迫ったその現象に恐怖はなく、ただ微かな期待だけがある。死の先には何かがあるのかもしれない、と。
 つい数時間前まで授業を受けていた自分。だが既に決めていた。今日、何もなく一日が過ぎるのならば死ぬということを。
 本当ならば思いつきで決めるべきことではないのだろうが、不思議なことに、その判断に迷いはなかった。
 何もない、何も変わらない人生に対する飽きと渇きと、飢え。こんな生活をただ漫然と続けるだけならばそれこそ死んだ方がいい。
『本当に?』
 小さな、問いかけが聞こえてくる。
 歩みが止まる。死を恐れて、ではない。その声が幻聴のようには思えなかったためだ。
『本当に、死んだ方が良いと思っているの?』
 どこかからかうような、まるで心を読んだかのような声に、貞彦は思わず振り返る。
 そこには誰もいない。貞彦が上がってきた階段とデジタル放送受像か何かのためのアンテナがあるくらいで隠れられる場所があるわけでもない。
「幻聴、か……」
 そう思うと、自分が意識している以上に死というものを恐れているのかもしれないことに気付く。
「あら、幻聴じゃないわよ?」
 再び、少女の声が耳に届く。
 幻聴ではない、その確信を持って貞彦は後ろへと向き直る。
「や」
 そこには、少女がいた。
「な……」
 黒の長髪にこの世のものとは思えないほど整った顔立ち。その容姿は幼げに見えるものの、その雰囲気はまさに妖艶というのに相応しいものだった。
 何よりも変だったのは少女の纏う衣服だ。紅白二色で繕われたそれは、いわゆる巫女服というものだ。今時、正月の初詣以外で見ることなどない。
 だが、そんなものは少女の奇怪さからすれば些事でしかなかった。
 何故ならば、少女がいる場所は中空だからだ。
 その少女は屋上の外に、浮いていた。
「君は、本当に死にたいと思ってる?」
 色香を漂わせる妖艶な笑みを浮かべ、少女は問い掛けてくる。期せずして、貞彦は自身の怒張が屹立するのを自覚する。
「違うよね。君は面倒なだけ」
 ふふ、と少女は笑いながら言葉を続ける。
「面白味のない世界を、寿命が尽きるまで生き続けていくのが面倒で、それが嫌で仕方がないから死という安易な選択肢を選ぼうとしているだけ」
 その言葉はある意味で、貞彦の内心の真実を突いていた。
「お前は……」
 震える声で、少女に問い掛ける。
「お前は、何なんだ?」
 問い掛けに、少女はその笑みを深くした。そして焦らすように首をかしげ、悩むように唸る。
 十秒ほどそんな仕草を続けたかと思うと、少女は誰にともなく頷き、口を開く。
「私はね、天使みたいなものよ。アナタのようなヒトに、力を与える、ね」
「天使?」
 貞彦は無神論者である。神という存在を信じてはいないし、だから当然、天使のこととて信じてはいない。
 それに目の前の少女は彼の持つ天使という言葉のイメージとは掛け離れていた。
 目の前の少女は天使というにはあまりにも淫蕩な雰囲気が強過ぎる。悪魔や淫魔サキュバスと言われた方がよほど納得できるくらいだ。
「もしかして、ちっとも天使っぽくないと思ってるのかしら?」
 素直に頷くと、少女は何が楽しいのかケラケラと笑い始めた。
「そりゃそうよね。まぁ実際、天使《みたいなもの》であって天使そのものじゃないから当然かもしれないけど」
 少女の語る言葉に、貞彦は確かな興味を抱き始めていた。
 心を読んだように語りかけ、宙に浮かぶ淫蕩な少女に。
「フフ……まだ死にたいと思ってる?」
「……いや」
 貞彦は思っていた、この少女について知りたい、と。
「死ぬのは、アンタに話を聞いてからだ」
「そう。だったら……」
 少女はえらく楽しそうに微笑み、
「もう二度と死ぬ気になんてならないようにしてあげる」
 確信を持った口調で、そう言い切った。


【前頁】         【次頁】
【書庫入口】