第弐話『欲望』

「ゆっくり話せる場所がいいな。ここじゃ寒いでしょ?」
 少女は寒さを感じているとは思えない雰囲気でそう告げた。
 貞彦にしても、少なくとも今すぐに死ぬつもりはなくなったため、こんな寒い場所にいつまでもいる必要もなくなっていたので少女の言葉に従ったのだった。
「アナタ、こんな娯楽のない場所でよく生活できるものね」
 貞彦の自宅に着くなり、少女は呆れたようにそう言った。
 唯一の娯楽として節操無く集めた無数の書籍があるものの、彼女にとって娯楽と判定されなかったらしい。
 今、貞彦は一人暮らしをしている。とは言っても別に実家があるわけでもない。
 物心ついた頃には既に彼には両親はいなかった。
 事故にでも遭ったのか、それとも捨てられたのか、何の情報もないし貞彦自身、そんなことに今更興味もない。
 そんな彼を育てたのは母方の叔父夫婦だった。子宝に恵まれなかった叔父夫婦は、貞彦を実の息子のように可愛がっていた。貞彦も実父母でないことなど気にすることなく暮らしていたものの、その叔父も二年前に交通事故で他界、仲の良い夫婦だったのだが、叔母もその半年後にまるで後を追うようにして脳卒中で亡くなった。
 今の貞彦は金持ちが毎月振り込んでくる多額の生活費で生活している。その金持ちは以前貞彦の叔父に世話になったということで、その叔父が息子のように可愛がっていた貞彦を養うことにしたのだという。貞彦も感謝しているものの、同時にその人物が物好きだとも思っていた。
「それで?」
「もう、せっかちな子は嫌われるわよ?」
 のらりくらりとした口調で貞彦の言葉を避ける少女。移動している途中もずっとそうだった。
 いい加減辟易としてきたところで、少女がようやく口を開いた。
「何から聞きたいのかしら?」
「お前は、何なんだ? 何故浮いていた? 俺の心を読んだのか?」
 ようやく答えるつもりになったと見える少女に、疑問を投げかける。
 またさっきのようにかわされてはたまったものではない。
「はいはい、もう焦らさないから安心なさい」
 焦れた貞彦を抑えるように、手で抑えるようなジェスチャー。
「ただ質問は一つずつ。まずは一つ目の問いに答えましょう、私は何なのか、良い問いね」
 出来の良い生徒を褒める教師のように、少女は微笑む。
「さっきも言ったけど、私は天使みたいなものよ。そして同時に、世の理を曲げ、意のままに操る術を持つ者でもある」
「魔法使い……そんなものが現実に存在すると?」
「胡散臭さは天使って言葉もどっこいどっこいじゃない?」
 確かに、と貞彦は頷く。
 さっきは混乱していたこともあって何も言わなかったが、改めて考えれば魔法使いも天使も似たり寄ったりのファンタジー用語だということに気付く。
「私を家にまで入れてくれた、ということは私の言うことを信じる気くらいはあるんでしょ?」
「内容によるさ。それにどうせ死ぬつもりだった。殺されても何を盗まれても困りはしない。だから入れただけのことだ」
 その回答に少女は残念そうに溜息を吐き、うな垂れる。
「まぁいいわ。まず前提として、魔法のようなものが実在すると信じてもらわないと話が始まらないけど」
「わかった。話してくれ」
 唐突に言われてもにわかには信じがたいものではあるが、事実、彼女が浮いているのを見てしまった以上、それを嘘だと一言で切って捨てることは出来ない。
「世界は一つじゃない」
 神託を告げる神官のように、重々しい口調で少女が告げる。
「世界は、樹形図のように広がってる。原初の世界から幾つにも枝分かれした世界、その一つがこの世界」
「どういうことだ? 要するに並行世界パラレルワールドという奴か?」
「その単語を知ってると話が早いわね。でも、違うわ。枝分かれの仕方の中に、同じ世界のままで分かれる並行世界と、全く新しく生まれる異世界アナザーワールドというものがあるの。まぁ、そんなもの知らなくても話は進むんだけれど」
 では何故話した、という言葉は飲み込む。折角少女が気持ちよく話しているんだからわざわざ話の腰を折ることはないと思ったからだ。
「ともかく、いくつもある世界……今はいくつだったっけ? 確か四かける十の二十六の六十乗乗個、とか、ともかく途方もない数の世界があるんだけど、その中には八柱の神が存在するのよ」
「神だって?」
 天使も魔法使いも現実離れしているが、今度は神ときた。
 次はアンゴルモアの大魔王か何かでも出てくるのだろうか。
「それでその神々はアンゴルモアの大魔王と戦うために……」
「マジでアンゴルモアの大魔王出てくるのかよ!」
「いや、そんなわけないじゃないの。冗談よ、冗談」
 一度殴っておこうか、と思いつつもその気持ちを抑える。
「まぁそれは冗談なんだけど、神がいるのは事実よ。術士の間では一般的に無双と呼ばれているけどね。それぞれ乖乱、放浪、悦楽、転生、放縦、深淵、奔放、統世と呼ばれる八無双。神と言っても万物に慈悲深く人々を救う存在なんかじゃない。ただただ強大な力を持つ天災の如し存在。どちらかといえば一神教の神というよりも、日本神道のような多神教の神に近いかしら」
「それが、なんなんだ? お前の正体と何の関係がある?」
「私はその眷族。神の御使い、という意味では天使というのはあながち嘘じゃないのよ。ちなみに私は悦楽の欠片、八柱の無双の中で最も享楽を好む無双の欠片よ」
「成程、な。そう言われると合点がいく」
 口ではそう言いつつも、貞彦の心中では疑問は尽きない。
「何故浮いていたのか、アナタの心を読んだのか、それは今の話の中でわかってもらえたんじゃないかしら」
「お前が、魔法使い――いや、お前の言うところの術士、という奴だからか」
「よろしい。私が漏らした術士という言葉を聞き流さず自身の知識として吸収するところも良いわね。ますます気に入ったわ」
 気付かぬうちに試されていたことに気付くも、不快感を感じてはいなかった。
 むしろ貞彦は彼女の話す内容に、好奇心を増している自分がいることに気付く。
「そんな天使様が俺なんかに何の用だ?」
「アナタに、力をあげる。退屈から脱却する力を、神の力の片鱗を」
 あまりに唐突な少女の申し出に、かえって不信感が募る。
 美味い話には裏がある。ただでさえ胡散臭い自称天使の話なのだから貞彦の不信も当然というものだろう。
「そんなことをして、お前にどんな得がある?」
「私の趣味は他人を観察することなのよ。でも、ただ人を見ているだけじゃ面白味に欠けるわね? じゃあどうすればいいのか、簡単よ。面白くなるように仕向ければ良い」
 椅子から立ち上がり、くるくると回転しながら楽しげに少女は語る。
「どんな方法でも良い。アナタは私を楽しませてくれればね。これは契約、私が力を与える代わりに、アナタは私を楽しませる。代価はそれで充分、もし仮に楽しめなくっても構わないわよ。それは私に見る目がなかったというだけのことだから」
「契約、か。まったく……神どころか悪魔のようなことを言う女だな」
「神か悪魔かなんて、主観によって変わるものよ。知ってるかしら? たとえばソロモンの七十二柱の悪魔の第一、バアルという悪魔はウガリット神話と呼ばれる神話の中では豊穣の神として崇められているのよ」
 貞彦は決める。
 どうせ自分は死のうとしていた身なのだから、たとえ殺されようと文句はない。
 それに何より、こんな面白そうなことに乗らない道理がない。
「まずは……アナタに、イイモノをあげる」
「良いもの?」
「そう、素晴らしいものよ。アナタの望みを叶えるのに必要な、とても大切なもの」
「ほら」
 その囁きが耳に入った時には、既に少女の掌が貞彦の胸に押し当てられていた。
「アゲルよ」
 触れられた場所から広がっていく、これまで感じたことのないナニカ。
 はじめに受けた感覚は立ち眩みに近いが、それもやはりどこか違う。それに加えて沸々と、ナニカが湧き上がる感覚を貞彦は覚える。
「何を、した?」
「だから言ってるでしょ。イイモノをあげるって。別に悪いものじゃないよ。退屈から脱するのに必要なもの」
「ッ……説明、しろっ!」
「欲望だよ」
「な、に?」
「欲望、Desire、Begierde……色々な言い方はあるけど、要するにそういうものだよ」
 そう少女が告げる頃には、身体の中を這いずりまわるような奇怪な感覚は失せていた。
「落ち着いた?」
「……あぁ。だが、欲望とはどういうことだ?」
「ヒトは欲深い生き物だよね。そしてだからこそ、今この星でヒトという生物は繁栄している」
 その言葉に、貞彦は内心で少なからず同意した。
 今現在の人間の持つ文化や技術、それらが生まれたキッカケは恐らく欲望だ。
 あるいは、願望と言い換えてもいいのだろう。
 もっと良い暮らしをしたい。そんな欲望が技術を発展させた。
 もっと広い土地が欲しい。そんな欲望が戦争を生み出した。
「人間が作り上げてきた様々な文化や技術、それらは皆、欲望を叶えるためのモノでしかない」
 仰々しい少女の言葉を、貞彦は無言で肯定する。
「でも、アナタにはそれが欠如してる。全くない、ということでもないでしょうけど、あまりにも希薄。三大欲求というものは知ってるわよね?」
「食欲、睡眠欲、性欲の三つのことだな」
 誰に習うでもなく、その程度のことは貞彦も常識として知っている。
「その通り。そしてその全ては一つの事柄に繋がるけど、わかる?」
「種の繁栄ということか?」
「えぇ。食事と睡眠は生命活動に、そして性欲は次代を作るために必須な欲求。つまり、生物の根源欲求は繁栄……でも、アナタは死のうとした。普通、人生に飽きたからって死のうとするものじゃないわよ? それは欲望の欠如と言っても過言じゃないでしょう?」
 確かに、大した理由も無く、生を放棄することは本能に反した行為なのだろう。そう思い、貞彦は自嘲の笑みを浮かべる。
「俺のようにくだらない理由で自殺したがる者も珍しいとは思うが、それでも自殺者なんてそこら中に溢れている。自然から離れ、本能を薄らせていった現代の人間としては不思議なものじゃないと思うが」
「……まぁ、確かにそうかもね。でも、アナタに欲望が欠如していたのもまた事実。無欲者が力を手に入れてもソレじゃあ私は面白くないしね。ヒトの幸福は欲望を満たすことで得られるものよ?」
 見透かすような視線を、少女は貞彦に向けて投げかける。
 欲。
 ただ退屈だと不平を感じ、しかし誰に言うわけでも何をするわけでもなく無為に過ごしていたのは、それがなかったからだろうか。
 何がしたい? そう貞彦は自らに問い掛ける。
 しかし答えは出ない。ただ、それは今までとは違う意味を持った心境。無数の欲求の中から、どれを選ぶべきかという迷い。
「どんなことができるようになる? そのデメリットや副作用は?」
 深い思案に耽る前に、反射的に問い掛ける。
「どんなことができるのか……少なくとも一般的な術士に可能な術式全般と、その他色々。あとは身体能力が飛躍的に上昇すること。デメリットは……そうね、これはむしろメリットかもしれないけど、老化が遅くなるわ。副作用は……まぁ、やりすぎなければ問題はないけど、一日に力を使いすぎると命の危険があるわ。そのくらいかしらね」
「……いいだろう」
 口には出さず、ただ内心で感謝の意思を浮かべる。
「お前が神だろうと悪魔だろうと、楽しませてやろうじゃないか。俺のやり方でな」
「では、契約ね。私はウズメ、天野あまの細女うずめ、アナタは?」
 そう言って、少女は手を差し出す。
「俺は……染ヶ谷貞彦」
 少女の――ウズメの手を握り返すと、静電気のような微かな痛みが手の甲に生じ、少しして消える。
「これは?」
 貞彦は手の甲に刻まれた、よく見なければわからない刻印を見て問う。
「私との繋がり。別にそんなものを刻む意味はないわ。でも、視覚的に見えた方がそれっぽい、でしょ?」
 この魔女は、そういった形式じみたことが好きらしい。
「あぁ、そうそう。デメリットを強いてあげるならもう一つあったわ」
 契約を結んでおいてその後にデメリットを告げる、まさに悪魔のようなやり口だ、そう思うと、
「今日からここに住まわせてもらうわ。だから食費とかの生活費はアナタの財布から出ることになる。それがもう一つのデメリットよ」
「ふっ……」
 思わず笑ってしまう。魔女の告げるデメリットがまさか、そんな子供のようなものだとは思わなかったためだ。
「使うなら隣の部屋を好きに使え、叔母の部屋だったが、もう使う者はいない」
「よろしくね、サダヒコ」
「こちらこそ、だ。ウズメ」
 淫蕩な笑みに微笑で返しながら、貞彦は自室のベッドに倒れこんだ。
 この悪魔との契約でどうなるのか、それは自分自身にも予想すらつかない。
 ただ、一つだけ貞彦は確信を持っていた。
 退屈な日常に終わりが来たということに。
 尽きることなき欲望を、その胸に抱いて。


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