壱
夜天を覆いつくす星々は、しかし街の明るさにその美しさを霞ませる。
学校の壁面に取り付けられた巨大なデジタル時計は、午前二時半という現在の時刻を表示している。
少し歩いて大通りに出れば、車通りは日中よりは少ないながらも途絶えることもなく、コンビニエンスストアや自動販売機の光が暗闇を照らし続ける。
既に深夜にもかかわらず、この街に暗闇の安息はない。まさに不夜城というに相応しいこの街で、一人の少女が歩いていた。
美しい少女だった。
整った目鼻立ちは勿論のこと、ポニーテールにまとめられた栗色の髪が、少女に快活な印象を与えている。
日付はとうに変わっている。こんな時刻に出歩くものではないと、良識ある大人であれば彼女に言ったかもしれない。
「……どうしたもの、かしらね」
誰に語りかけるでもなく呟くと、少女の口から溜息が漏れた。
それを合図とするかのように、微かながら張り詰めていた空気が糸が切れたかのように弛緩する。
周囲を改めて見回してから、少女――柊葵はがっくりと肩を落とした。
葵は夜遊びをするタイプではないし、事実、夜遊びのためにこんな深夜にまで出歩いているわけでもない。第一、中心街の方に出て行かなければ遊べる場所すらないのだ。
そんな葵が、こんな時間にこんな場所にいるのは彼女の家業に理由があった。
退魔業。
柊家は退魔調伏を生業とする一族で、その姓も、悪鬼払いの意図を持って授けられたものだとされている。
科学技術が世界を席巻する現代、退魔業が物語の中だけの話だと思われるのは仕方がないことだろう。しかし現実、退魔業はただの飾りとしてではなく存在する。
事実、葵はその次期当主として既に幾度もの退魔業を行っているし、一般的に知られていない特殊な技能を用いることが出来た。
今回の散策は、その退魔業の一環であった。
ここ数週間、この周辺で頻発する失踪事件。ただ偶然が重なっただけかもしれないし、あるいはただの誘拐犯による事件という可能性もある。
しかし葵は、漠然とした勘ながらも、それが自身の領分にある事件であると確信していた。
即ち、術式が関わる事件と。
術式とは、精神が潜在的に持ち備える干渉力という力を、指向性を持って外界に行使することで科学法則に反する現象すら引き起こす技術を指す。
それは魔法と呼んでも差し支えのないものであり、同時に似て非なるものでもある。
「今日は出ないのかな?」
そう考えつつも駄目押しにと、再度索敵の術式を展開するが、案の定、特別な存在を感知することもできない。
「帰ろうかな」
明日も学校があるのだから、と葵は自分に言い聞かせる。退魔の鍛錬ばかりを行っていた葵の学力は芳しいとは言いがたい。
折角の長期休暇期間を、補習で半分ほどに削られてしまうというのが現実的な危機と感じられるほどに。
「え?」
瞬間、葵は奇怪な感覚に襲われる。
位置情報を割り出し、ソレが起こった場所へと走る。その心に恐怖はない。あるのは使命感と、好奇心。
葵が感じ取ったのは『何かが何もなかった場所に突然現れた』としか思えない感覚。それも、その気配からは同時に若干の干渉力も感じ取れる。
ただ物質を転移させるだけならばともかく、生物を転移させるには高度な技術と莫大な干渉力が必要となる。
不思議なのは転移の術式を使う存在にしては、あまりにもその力が微弱にしか感じられないということだった。
世に言う無双のような神格級の術士であれば、莫大な干渉力を隠行によって隠すことも可能であろうが、隠そうとしているのであればあまりにもお粗末な偽装といえた。
公園の林の傍、その気配の主は居た。
その存在を一言で現すならば触手、という言葉を用いるべきだろう。
サッカーボール大の球状の本体から生えた無数の触手が、ぬめぬめとした粘液を纏い蠢いている。
その見た目に、思わず葵は生理的な嫌悪感を感じる。今まで葵が滅したことのある人外は、その大部分が既存の生物分類体系から離れてはいるものの、それでも生物としての類似点を感じさせるものだった。
だが、目の前に居るこの人外は違う。伝聞でしか知らなかったまさしく魔物とでもいうべきソレと相対し、葵は身体を震わせる。
恐怖? 否、武者震いだ。
それは葵の強がりではない。その見た目には嫌悪感を抱かずにはいられないものの、目の前にした真正の《魔》を相手に、自身の力がどれほどまで通用するのか、それを試してみたいと葵は思ったのだ。
「にしても、気持ち悪いわね」
吐き捨てる葵の言葉にも、触手塊は答えない。そもそも、答えられるだけの知性があるとは葵には思えなかった。