「食餌」
 答えを期待してはいなかった問い掛けに、背後から答えがあった。
 若い男の声。驚きのあまり、葵はほとんど反射的に振り返る。
「……いや、そう呼ぶにはあまりにも無粋か。さて、どういった言葉が最も適しているか、悩ましいところだな」
 首をかしげつつ、自問を続けるのは青年だった。
 整った作りの顔をした容姿からは十代の後半から二十代の前半ほどに見えるものの、見た目で判断してはいけないと葵の勘は告げていた。
 青年は今、目の前にいるというのに一切の気配を感じさせていない。それはあまりにも異常。
 神経を研ぎ澄まし、そこにいるものを感じ取ろうとしているのにそれができない。葵が知る最も熟達した術士である父ですら及ばない隠行といえる。
「貴方は、一体……」
「どう思う?」
「は?」
 青年の問い掛けが持つ意味を理解できず、葵は思わず眉を潜める。
「いや、私が先程行った行為、それをなんという単語で表現すべきかと思ってね……おっと、問うたのはそもそも君だったか。わかるのであればそもそも私に問うまい。今の問いは忘れてくれ。自力で解を探そう」
 その容貌と比べてあまりにもらしくない口調に気をとられつつも、葵は青年の言葉に引っかかりを感じた。
(今、何か大切なことを……)
「あの、今、何て言いました?」
「ん? まぁよかろう。私は『いや、私が先程行った行為、それをなんという単語で表現すべきかと思ってね……おっと、問うたのはそもそも君だったか。わかるのであればそもそも私に問うまい。今の問いは忘れてくれ。自力で解を探そう』と言ったのだよ。なかなかどうして私の記憶力も侮りがたいだろう?」
 青年は言った。確かに言った。私が先程行った行為、と。
 そしてそれが意味することは、この場において二つと存在しない。
 葵は後方へと跳び退き、青年から距離をとった。
「お前は、何をした?」
 無意識に葵の口調も硬くなる。
「それを思考しているのだ。食餌、という言葉が近いのだろうが無粋。あるいは情報収集というのもまた正しい解となろう」
「最近起きている連続失踪事件の犯人は……お前ね?」
「連続失踪事件? ……おぉ、成程、得心いった。確かにそれは私の所業と言って相違ない。安心したまえ、君の推理は正解だ」
 青年の答えは冷静。そして、だからこそ異常。
 その回答に葵がとった行動は一つ。
「柊流退魔師、柊葵!」
 名乗り、思考加速と肉体強化の術式を再発動。
 加えて六つの雷球を周囲に同時展開。牽制の意味を持たせつつ、踏み込み一つで大薙刀の射程ギリギリの距離へと詰められる位置をとり、構える。
「ほぅ」
 感心したように、青年は小さく声を漏らす。
 葵は雷球を一斉に放つ。それは機を見ての行動ではなく、恐怖に後押しされての行動。
 だがそれでも、葵の退魔師としての思考は術式を編み、詠唱を始めていた。
「木気を纏いて此処に霹靂を齎さん。柊流退魔術《迅雷》、急々如律令いそぎてりつりょうのごとくなせ!」
 踏み込み、一閃。
 本能的に放った一撃は、それまで葵が放ったどんな一閃よりも美しい、完璧な軌道を描く。葵自身ですら驚くほどに見事な一閃。
 だが、それが青年の胴を断ち切ることは無かった。
(え……?)
 雷の尾を引いた刃の軌跡が通る。既にそこに青年の姿はなく、雷の一閃は空を切るのみ。
「珍しい。呪言詠唱系の術士などとうの昔に衰退したと思っていたが、いる所にはいるものか」
 声の出所は背後。振り抜いた遠心力のままに、薙刀を振るう。
 再び刃が空を切り、青年の姿は正面に移動していた。
「初対面の相手を早々に殺しに来るというのは剣呑至極。物騒にもほどがあるのではないか?」
 雷球を放つも、面倒臭そうに振るわれた腕によって明後日の方向に飛んでいく。
「だが、悪くない」
 そう言って、青年は笑みを浮かべる。
 葵の本能が、危険であると告げる。正義感も矜持プライドもかなぐり捨てて、この場から一目散に逃げ去れと告げている。
 だが、葵はそれを是としない。
 本能は、逃げろと告げつつも同時に、絶対に逃げられないとも告げていた。
(何よ、何なのよ、コイツ……)
 葵は自身の退魔師としての能力に自信を持っていた。低位から中位の人外であれば容易に打ち倒すほどの実力もあった。
 しかし、目の前にいる存在は、それを鼻で笑うかのような圧倒的な能力を持っているのだ。
「器量も良いし、この場で私に背を向けて逃げ出すほど頭も悪くはないようだ」
 値踏みするように、青年は葵を上から下へと見つめながらそう言った。
「君には、私のモノになってもらおうか」
 ゾクリとした。
 青年の視線の中に、何か、想像もつかないような魔物が住み着いているような感覚を覚える。
「東精青竜」
 当たるとは思っていない。だがそれでも、撃たずにはいられない。
 左手で、衣服の中に仕込んだ呪符を取り出し、投げ放つ。
「木気よ、我に集いて魔を討つ槍を成せ……」
 詠唱を終え、鳴神を大きく頭上に振りかぶる。
急々如律令いそぎてりつりょうのごとくなせ!」
 乾坤一擲。
 大上段から振り下ろされた鳴神の一撃を、青年は術式による障壁の展開で受け止めた。
 とはいえ、そこまでは予想通り。迅雷ですら通じない相手に、ただの振り下ろしが通用するとは露ほども思ってはいない。
 本命は、その次。
「天槍《降御雷フルミイカズチ》!」
 刹那。
 天上から雷が振り下ろされる。
 天槍《降御雷》はその名が表すとおり、天から雷の槍を降らせる術式で、葵が使うことのできる術式の中で最高位にあたるものだ。
 鳴神を指標ストリーマーとして天から降り注ぐそれは実際の雷以上の破壊力を持ち、点に対する威力であれば核弾頭にすら匹敵する。
 その真髄は、本来ならば半径五〇メートル圏内を覆いつくす広範囲雷撃術式を無理矢理に十五センチ四方へと集める収束力。
 直撃すれば生き残る術は無く、術式障壁を用いたところで紙のように容易く破る、対城攻略用術式。
 着弾点から暴力的なほどの爆風が発生し、砂塵が吹き荒れる。
 葵は暴風に身体を乗せるようにして距離をとる。
「はぁ、はぁ……」
 巻き上がった砂塵を見つめながら、葵は肩で息をする。
 その絶大な破壊力の代償として、降御雷は莫大な干渉力を必要とする。通常の術士であればそれを賄うことすらもできないが、葵は術式の効率化に加え、儀式によって干渉力を蓄えた呪符や、呪言詠唱などの助けによってその発動を可能としていた。
 それでも、葵に残された干渉力はほとんど残っていない。
った、わよね?」
 手応えはあった。
 葵にとっては正直なところ、今の一撃は分の悪い賭けだった。
 当たれば勝ちが決まるものの、外れれば勝つのはおろか、それ以上の抵抗もできはしないし、そもそも当たるとは思っていなかった。
 だが、葵を侮ったためかそれともただ愚かだったのか、青年は迎え撃ってきた。
 賭けは葵の勝ち。
「成程、それなりの火力だ」
 砂埃の奥から、涼しげな、先程と変わらない青年の声が聞こえてくる。
 葵には信じられなかった。
 天槍は確かに、青年に命中したのだ。莫大な干渉力の行使によって一時的に感覚の薄れつつある両腕もその手応えを覚えている。
 つまり。
 青年は核弾頭に匹敵するその火力を受け止めたということになる。
「ありえ、ない……」
 信じたくない、という意味で出た言葉ではない。
 あの術式を受けて、生き残ることの出来る存在がこの世界にいるとは思えなかったのだ。
 砂埃が収まった。
 地面は十数メートルの深さまで沈下している。その中には、服についた砂埃を、何事も無かったかのように掃う青年の姿があった。
 その姿には砂埃による汚れこそあれ、傷一つ、汗の一滴すらもない。それは葵にとって最早、悪夢に近い光景ですらあった。
「そういえば君は名乗っていたな。礼儀として、私も名乗っておこう」
 十数メートルの深さにいて、大声で喋っているわけでもないのにその言葉は葵の耳に確かに届く。
 気付いた時には、既に青年は葵の目の前にいた。
「私は悦楽の無双が欠片の第二片、信楽しがらき。君……いや、お前の主人となる者だ」
 そう言って、青年は――信楽はゾッとするほどに優しげな笑みを浮かべた。
 その手が額に触れると同時、葵はその意識を闇の中へと沈めていった。


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