十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人。
その言葉が該当する人間というのはあながち少なくもない。
そして彼――小野村仁司もその例に漏れることのない人物であった。
自分にとって、人生の春は小学生時代だったと仁司は思っている。
勉強でも、スポーツでも、仁司に敵う者は一人として存在しなかった。
周りには勝手に人が集まってきたし、わざわざそれを気にするまでも無く好意を向けられていた。
そんな自分に対して仁司は子供心ながらに誇りを持っていた。
いつか宇宙飛行士にでもなって、アイドルのような美女と結婚するのだと、そんな夢を思い描いていた。
だが結局、夢とは現実ではないから夢なのだ。
変化は、仁司が中学に入ってから訪れた。
仁司は自宅からかなり離れた名門中学校を受験し、それに見事合格、入学を果たした。
しかし、今になってみれば、落ちていればよかったのではないかとすら仁司は思っていた。
自宅からも遠い私立中学校に小学校の頃の友人などいるわけもない。
そして何より、最悪だったのが一年の時に担任となった中年教師だ。その男は仁司に対して、教育委員会に告発すれば問題になるであろうほどの体罰を行っていたのだ。
実のところ、その体罰は仁司のみに対して特別強く行われていた、というわけではない。彼が受け持った全ての生徒に対して平等に行われていた。
だが、それまで両親にも周囲の大人にも、友人たちからも好意を向けられていた仁司は、他人からの悪意というものに一切の免疫を持ち合わせていなかった。それゆえ、初めて受ける他人からの悪意にノイローゼとなり、その結果として不登校となってしまった。
そこからがケチのつきはじめだった。
不登校となった仁司はストレス発散の道として食を選んだ。
運動することなくただ食べ続けるだけの生活は仁司の整った顔立ちを崩し、軽々しい動きを重々しく変えるのに充分すぎるものだった。
ほんの二ヶ月で体重はそれまでの一・五倍へと膨れ上がり、急激な体重の増加は仁司の体調を悪化させた。
それまでできていた機敏な動きは見る影もなくなり、以前の自分と今の自分が同じなのか疑問に思うほどだった。
夏休みが明けて、仁司は再び学校へ行くことになった。
理由は単純。仁司が不登校となる原因となった中年教師が、いよいよ問題視され学校を辞めたのだ。
とはいえ、それで仁司に春が戻ってきたわけではない。
一学期の内、不登校で溜め込んだ脂肪は級友からのからかいの対象となり、アイデンティティであった運動神経をも妨げた。
必死の補習により、成績については以前どおり、トップクラスのものをとることができるようになったものの、でっぷりと膨らんだ体は以前のような動きを不可能としていた。
仁司はそれが原因で不登校となることこそなかったものの、人との関わりを避けるようになった。
二学期ともなれば、生徒達の中で既にグループは完成している。不登校だった仁司はどのグループにも属することができず、更には肥満体系となった仁司を好んで受け入れようとするグループもまた、存在するわけが無かった。
そうして孤独となった仁司が向かったのは、やはり食であった。
結果、仁司は中学時代、ずっとトップクラスの成績を維持しながらも、右肩上がりの体重増加を見せていた。
そんな仁司の転機は高校一年の時。
両親より高校進学のお祝いとして受け取ったパソコンが、再び仁司を変えていく。
特に興味があったわけでもなく、ただインターネットの検索ランキング上位にあがっていたというだけの理由から覗いたアニメサイト。
半年もしない内に、仁司はまさに見事なまでのアニオタへと変貌を遂げていた。
両親には参考書代と言って金を巻き上げ、それを漫画やライトノベルの購入にあてる。
大学へ上がってからの仁司は更に酷くなっていた。
中高大一貫のエスカレーター式だった学校を一人暮らしをするためだけにやめ、遠方の国立大学を受験した。
相変わらず成績だけは良い仁司は難なく合格し、念願の一人暮らしをはじめた。
そうなってしまえばもう歯止めは利かない。
仁司の部屋にはエロゲーの箱が詰まれ、無数のフィギュアがいたるところに置かれるようになった。
大学在学中の四年間、仁司は一人として友人を作ることなく、ただ趣味に邁進した。
そして、そこから更に四年経った今。
仁司は二十六歳となっていた。
就職氷河期と言われる現代、優秀な成績が助けとなり、どうにかこうにか入社した証券会社で仁司はしかし、肩身の狭い日々を過ごしていた。
何せ仕事は勉強とは違う。
教科書どおりに解けばよかった学生時代ではないのだ。
勉強こそ得意だった仁司だったが中高大と十年の間で培われた人と対面する恐怖はなかなかに拭いきれるものでもなく、人とのコミュニケーションが苦手となっていた。
もちろん、それは業務にも影響し、そのために仁司は肩身の狭い思いをしているというわけである。
周囲の人間は上司や同期どころか後輩までもが嘲笑や侮蔑を向けているように思えてくる。
「くそっ」
こんなはずじゃなかった。
そう仁司は心の中で毒づく。
本当ならば、自分はこんなところで燻っているような小さな人間ではない。
そう思いながらも、行動に起こすことはおろか、口に出すことすらできはしない。
結局のところ、仁司もまた、雑多な『その他大勢』の中の一人に過ぎないということだ。
とはいえ、それを認めることは仁司にはできない。
それに何より、仁司にも救いがあった。
岡野恵。
この部署におけるアイドルとも言われている女性社員だ。
他にも容姿だけであれば整った社員も数人いるが、彼女はなによりも人当たりがよかった。
誰に対してでも変わることなく笑顔で接する。それは仁司に対してでもそうであった。
多くの女性社員が仁司に対して向ける嫌悪感を恵は一切向けることが無かった。
それは、仁司にとって光だった。
そして仁司は理解する。自分は彼女のことが好きなのだと。
理解してしまうと、唐突に仁司は恐ろしくなった。彼女は美しい。このままでは誰かに奪われてしまう、と。
そう結論付けたならば選択肢は一つしかない。自分が彼女の伴侶になることだ。
今でこそ燻っているが、自分は本当は出来る人間なのだと言い聞かせて。
決心した仁司は一つの行動に出た。高校時代から黙々と集めたアニメやその他の全てのグッズをオークションに掛けて売りさばいたのだ。
オタクな自分では彼女とは釣り合わない、そう考えての行動だった。
オタクグッズを全てを売ったことによって仁司の財布は随分と潤っていた。それこそ限定品などといったレアグッズも多数保有していたため、その総額は馬鹿にならないほどのものだったのだ。
そうして、仁司は覚悟を決めた。今夜、仕事が終わったら告白しよう、と。
仁司は三次元女性恐怖症といっても良い状況にあった。家族などごく限られた例外を除いて、女性とマトモに話すことなどできはしない。
そんな仁司がそれほどの決心をするのにどれだけの苦悩があったのか、その苦悩は計り知れない。
仁司が昼休みに社員食堂に行こうと歩いていた時、意図せず給湯室から女性社員達が談笑しているのが耳に入ってきた。
聞こえてくる声からして話しているのは同期の女性社員三人組。その中には恵も含まれている。
それも『デブ』だの『オタク』だの『キモイ』だのといった、仁司からすればピンポイントで耳の痛い単語ばかり。
「しっかし小野村の奴、ホントキモいよねぇ。あぁいうのって絶対家でアニメ見て萌えーとか言ってるよ」
「あー、絶対やってるって。キモー」
彼女たちの内、園部真紀と山脇亜希子の二人はいつも仁司の前で聞こえよがしに悪口を言っている。彼女たちに何を言われても既に慣れたものだったが、思わず仁司はその場に立ち止まってしまった。
それはその後にやってくる幸福を感じるためだ。いつも彼女たちが仁司の悪口を面と向かってではないものの言った後、恵は申し訳無さそうに仁司に頭を下げてから去っていく。今回もそのように恵のフォローがあるのではないかと仁司は期待していた。
「ねぇ、恵もそう思うでしょ?」
だがしかし、そんな仁司の思いはやすやすと裏切られた。
「真紀ったら今更そんなこと聞かないでよ。私がアレのこと嫌いなの知ってるでしょ?」
と。
聞き間違いようもなく確かに恵の声で放たれた言葉は仁司に絶望を与えるのに充分過ぎるだけの威力を持っていた。
「同じ職場に、うぅん、同じ世界に存在してほしくないわよあんな汚物。しかも折角媚売ってるのに気持ち悪い視線で見てくるだけでちっともお金にならないし。トラックに轢かれて死なないかな?」
「ホント、恵って悪女だよねー。むしろ二重人格?」
茶化すような亜希子の言葉に恵が笑う声が聞こえる。
「せめて役者って言ってよね。とりあえず男には媚と女を売っておけば良いの。まぁ、あの汚物に股を開くなんて……うわ、考えただけで気持ちワルくなってきた……」
「さっすが男子社員のアイドル様は言うことが違うわねぇ。私にゃ真似できないわ」
冗談であってほしいと思った。
冗談なのだと信じようとした。
だが、無理だ。
一言一言、その口から放たれる言葉は仁司の心をズタズタに引き裂いていく。
彼女たちは談笑を続けていたが、仁司にはその内容が入ってこなかった。
ただただ絶望感がその胸にこみ上げてくる。
そのまま進めば鉢合わせてしまうため、一度戻ってからエレベーターを降りた。
何をする気力も失った仁司は、夢遊病患者のようにアテもなく歩き続けた。
その姿は幽鬼のようでもあり、傍目にはさぞや不気味に映ったことだろう。
気がつくと、仁司は狭い裏路地を抜けて、広場のような場所に辿り着いていた。
特に意図があったわけではないし、そもそもどのようにここにやってきたかすら仁司にはわからなかった。
ビルとビルの隙間のごく狭い空間に奇跡的に生まれた空き地。
見上げればそこにある四角く切り取られた空は、仁司の心を映し出しているかのように暗く沈んだ色をしていた。
仁司が正面に視線を戻すと、先程は気付かなかったが机が置かれていた。
よく道端で、インチキ臭い占い師達が座っているような机と椅子のセット。
しかし、そこに座っていたのはそのような職種の人間には見えなかった。
座っていたのは少女だった。
幼さを残した顔のつくりから、歳の頃は中学から高校生の辺りに見えるものの、彼女が纏う雰囲気はその容貌とは全く異なっていた。
座っているものも、この場所自体が驚くほどに彼女とはあっておらず、それでいて何故か不自然に感じることができなかった。
楽しげに笑みを浮かべた少女を見て、仁司はただ一つの言葉を思い浮かべた。魔女、と。
その理由は仁司自身にもわからない。しかし何故か、今自分がここにいるのも、彼女が何かをしたからなのではないかと、そんな考えすら生まれてくる。
「ねぇ」
唐突に、声を掛けてきたのは少女の――魔女の方だった。
喩えようもない恐ろしさに追い立てられて、仁司は一歩、二歩と後ずさる。
自分の足で来たものの、どこともわからない怪しげな場所なのだ。女性恐怖症の仁司でなくとも恐ろしくは思うだろう。
それを納得させるだけの迫力が魔女にはあった。
見た目だけでは迫力の欠片もない。しかし、対面している今、彼女から放たれる言いようのない圧力は確かに存在していた。
「怖がらなくていいわよ。何もとって食おうってわけじゃないしね」
満面の笑みで告げられて、恵の笑みが脳裏に蘇る。
今までであれば、それは何をするにも糧になっていただろう。しかし、今の仁司にとってそれはむしろ絶望の象徴だった。
「なんか脳汁でも出てきそうな感じね……聞こえてる?」
「ぁっ……」
いつの間にか縮まっていた距離に、仁司は驚いて後退する。
彼女を魔女と思わせた理由の一つである黒の長髪がビル風によって大きく揺れる。
「イイモノをあげる」
何の前兆も無く、魔女は仁司に向かってそう告げた。
あまりに唐突過ぎる言葉に、仁司は彼女が何を意図しているのかを全く理解できなかった。
頭の中で吟味してみたところで、その意図はわからない。
「どういう、意味です?」
勇気を振り絞って、それだけの言葉を口から吐き出す。
自分の半分ほどの年齢に見えるにもかかわらず、吐き出された言葉は思わず敬語となっていた。
「あんまり深い意味で考えられても困るんだけどね。ただ私はアナタにイイモノをあげるってだけ」
何故、という疑問を仁司が口にするよりも早く、魔女は言葉を放つ。
「アナタはきっとこう思ってる。この女は何者なんだ、何を言ってるんだ。何故そんなことを言うのか、ってね。まぁ至極まっとうな疑問だとは思うわよ」
まるで心を読んだかのような魔女の発言に仁司は呆然と立ち尽くすしかない。
「でも、今は疑問を持たずに私の事を信じてみなさい。きっと悪いようにはならないわよ」
魔女の言葉には胡散臭さしか含まれていなかったが、それでも仁司はなぜかをそれを信じようと思ってしまっていた。
あるいはそれこそが魔女の魔女たる所以なのかもしれない、とも。
「それで、君は何をくれるって言うんだ?」
「逆に聞くけれど、アナタは一体何が欲しいの……うぅん、何がしたいの?」
そこで、仁司は一つの感情に気付く。
絶望だけではない。単純で真っ直ぐな、一つの感情。
そう、怒りだ。
彼女の行為は裏切りだ。だから、罰を与えなくてはならない。
復讐、否、天誅だ。人を誑かし、その裏で嘲る悪女には裁きを与えなくてはならない。
では誰が? 自分の他に誰がいるだろうか。彼女の本性を知った被害者が。恐らくはいまい。であれば、それは自分の使命に他ならない。
「罰を、あの女に、天誅を!」
仁司は叫んでいた。
「面白そうね……詳しく聞かせてくれない?」
「あぁ……」
何故、今出会ったばかりの、これほどまでに怪しい少女に対して話す気になったのかはわからない。
ただ仁司は、ごく自然な気持ちで今に至る経緯を話した。
といってもその内容は至極短いものだ。
仕事場のアイドルに恋をして、彼女だけは自分の味方だと信じていた。だがそれは演技に過ぎなかったのだと。
それは酷い裏切りだと、仁司は語った。
それを魔女は無言のままに聞き終えると、愉快そうに笑った。
「悪くない。悪くないわよ。少なくとも確かな『芽』はあるみたいだし……いいわ、やっぱりアナタにイイモノをあげる。アナタの欲望を叶えるための、とってもイイモノをね」
そう言って、魔女はさっきまでどこにあったのか、手提げポーチに手を突っ込む。
そこから出てきたのは白い紙袋だった。
白地に青い文字で何かが書かれたその紙袋を、仁司は確かに知っている。
「薬?」
そう、薬。
あれは病院などで薬を受け取る時に入っている袋にそっくりだった。だがそれにしては随分と膨らんでいる。
「そう、お薬。今のアナタにぴったりの、ね」
受け取り、袋の中を確かめてみると入っていたのは薬ビンだった。
茶透明な薬ビンにはラベルのたぐいも貼られておらず、それが何なのかを判断する術は無かった。
「この薬はね、人の心を操ることができる薬よ」
一瞬、仁司には魔女の言葉が理解できなかった。
人の心を操る、即ち洗脳。それを薬で可能にするなど、フィクションの中だけの話だと思っていた。
嘘だろう、と。そんなことがあるはずがない、と。
そう言ってこの場を去ることは簡単だっただろう。
しかし、仁司はそうしなかった。
「それは……」
一体何なのか、という疑問を仁司は口にしようとして、やめた。
薬だということはわかった。しかしそれが一体何なのか、根本的なところがわからない。
だが、そんなことは関係ないのだ。
仁司は頷くと、薬ビンをポケットの中に仕舞った。
この異常な状態に順応していることに仁司は自分でも驚いていた。
既に動揺はない。口からは必要な情報を得るための問いが出ていた。
「どうやって、使うんです?」
「基本は経口摂取。それが一番楽だからね。でも注射でもいいし、噴霧でも、皮膚からの吸収でも充分な効果が出ると思うわ。それについてはアナタ次第」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「私が答えるかどうかはともかくとして、聞くのは自由よ」
「どうして、そんなものを僕にくれるんですか? 見ず知らずの僕に」
「んー。別に難しい理由はないんだけどね」
ただね、と、魔女は言う。
「面白そうだから」
魔女がそう言って満面の笑みを浮かべると、再び強いビル風が吹き付ける。
あまりの強風に仁司は反射的に腕をかざす。
「え?」
風が消えた時、そこには何もなかった。
立っているはずの魔女も、彼女が座っていた机や椅子も何一つ。
それどころか、一歩たりとも動いていないつもりだというのに仁司がいるのはただの路地。確かにあったはずの広場すらも跡形なく消え去っていた。
さっきのは自分が見た夢か何かだったのか、そう思ってポケットに手を入れると、中には今しがた魔女から受け取った薬のビンが確かに入っていた。
それは先程のことが夢ではなく、確かな現実であることを意味している。
暗く曇った空から、ポツリポツリと小さな雨粒が零れ出す。時計を見ると、昼の休みも残りそう多くはなくなっていた。
狐につままれたかのような出来事に混乱しつつも、仁司は会社へ戻るために歩き出した。