第漆話『座談』
「大丈夫だって」
二つ折り式の携帯電話を折りたたみながら、部屋に戻ってきた皐月は安堵の表情を浮かべてそう告げた。
「そうか。しかし、一人娘がこんな時間に外泊すると言って認めるとは……あの人も達観しているというべきか」
そう言って貞彦は溜息と共に言葉を吐き出す。
あの人、というのは皐月の母のことだ。
母子家庭である三嶋家では皐月はそれはそれは可愛がられていたものだという記憶が貞彦にはある。
しかしそれ以上に皐月の母は変わり者だという印象も強い。そう考えれば不思議なことではなかった。
「今まで夜遊びをしたこともないし……信用があるからね」
「むしろそんなお前だからこそ、この時間まで連絡を入れなかったことを気にしないことの方がおかしいだろうに」
既に時計の針は日付を跨いで一時を過ぎている。
「まぁいい。しかし、何と言って外泊許可をもらったんだ?」
貞彦は気になったことを聞いてみると、
「ひっくんの家に泊まるからって」
皐月は至極、真面目な表情で即座に返した。
あまりにストレートなその言い分に貞彦は言葉を失う。
「あの人は本当に……」
ここまでくると、もはや変わり者というレベルでは済まない。
幼稚園や小学校の頃の話ならばまだいい。だがこの歳になってそれはない。
しかしそれもあの母親であると思えば溜息一つで片付いてしまう程度の問題だった。
「アハハハッハハアハハハハハハハ!」
二人のやり取りがおかしかったのか、ウズメは爆笑。
「黙れウズメ」
「近所迷惑ですよ」
貞彦と皐月、二人からの冷たい言葉を浴びせられたウズメはそれこそ氷水を浴びせられたように黙ると、すぐさま表情を変え、滂沱の涙を流しながら一瞬で貞彦に詰め寄った。
「これは虐待! 虐待よ! 動物愛護団体に訴えてやるんだから!」
「……とりあえず、訴える対象が人権団体ではなく動物愛護団体なのがツッコミ待ちなのかくらいは聞いてやる」
冷静なツッコミにもめげることなく、ウズメは貞彦の肩を揺する。
「人の揚げ足をとるなー! この人非人ー! 馬鹿ー! 変態ー! アホー! 強姦魔ー! ロリコンー!」
「いくらかは甘んじて受け入れるが、少なくとも人外の神格に人非人とは言われたくないな」
「女三人寄れば姦しい、と言うけど……」
「姦しいのはウズメ一人だがな」
どこかしみじみとした皐月の発言に、貞彦は溜息混じりに返す。
そもそも、この場に女は二人しかいないわけだが。
「……ふぅ」
数度のやり取りで、何度目となったかわからない溜息を吐き出す。
今この場の、この空気が嫌だというわけじゃない。むしろ好ましいものでさえある。
あの頃と変わらないとすら思えるような、そんな懐かしい空気。
だがだからこそ、恐ろしい。忘れていた感情を取り戻すかのようで。
「ひっくん?」
思考が顔に出ていたのか、皐月が心配そうな表情で貞彦の顔を覗いていた。
「……なんでもない。それよりも」
「作戦会議でもはじめる?」
ウズメの言葉に首肯して、貞彦は居住いを直す。それを見て、皐月も同様に姿勢を正した。
あのままの空気に触れていれば、その居心地の良さに、それ以上進めなくなっていたことだろう。
それは停滞だ。貞彦はそれを望まない。
「次の獲物を、決めるとしよう」
だからこそ貞彦は踏み出す。
暖かい部屋の中から、極寒の極地へと踏み出すように。
「どうやって決めるの?」
「……ウズメ、おあつらえむけのモノを持っていなかったか?」
問い掛けると、ウズメは待っていたと言わんばかりに一冊の本を掲げる。
「これのこと?」
一体どこから出してきたのかわかったものではない。いつの間にかウズメの手中にあるその本は、いかにも豪奢な革張りの分厚い本だった。
表紙には何故か、貞彦の描いた犬の絵。その下には箔押しで『著:天野細女』と書いてある。
芸が細かいというよりも、無駄なことこの上ない。そんな感想を抱きつつ、ウズメからその本を受け取る。
ウズメが軽々と片手で持っていたとは思えないほどにずっしりとした重みの本の、半ばのページを貞彦は適当に開いた。
「これって……」
皐月が驚いたように声をあげる。
見開きに載せられているのは三十二枚の写真。
それも、その全てが少女。写真一枚一枚の下には番号が振られていた。
一枚ページをめくると今度は文字。写真に振られた番号に対応する名前や個人情報が記載されている。
「流石にこれは予測していなかった。しかし、どこかで見た構成だな」
「保育社の図鑑を参考にして組み立ててみました」
「……それでか」
道理で見覚えがあるわけだ、と貞彦は頷く。
どんな方法を使ってこれだけの写真や情報を集めてきたのか想像もつかないものの、そもそもそんなことはどうでもいい。
「で、この本にダーツを投げて、当たった女の子が次の獲物!」
「意味のわからないことをのたうつな」
「まぁランダム要素はいいにしても……適当にでもサダヒコに決めてもらわないことにはねぇ」
そう告げるウズメの言葉に頷きつつ、貞彦はページをめくっていく。
「……あ」
しばらくページを進めていると、突然に声をあげる。
「どうした? 皐月」
「この娘……」
皐月が指したのは一人の少女の写真。
年齢は貞彦達よりも三つか四つほど下だろうか、少女の顔は記憶にないものの、どこかで見たことのある気はする。
「知り合いか?」
「うん、まぁそうだけど……」
ページをめくり、少女の個人情報の記載されているページを開くと、そこには千堂梨緒、と。そう書いてあった。
「千堂?」
「美樹ちゃんの妹だよ」
言われて見れば、その容姿は千堂美樹のそれによく似ている。
見覚えがあったのはそれが原因だろう。
「その千堂妹を次の獲物にすると?」
「え? うぅん、そういうつもりじゃなかったけど……」
容姿にしても申し分ないと言っていい。特別にこだわるつもりはないものの、候補としては充分だった。
皐月は言ったのだ。どんなことでもすると。たとえ千堂であっても、貞彦がそれを望むのであれば犯すと。
「……ひっくんがそうするって言うなら、私は手伝うよ」
迷いの無い、まっすぐとした瞳でそう告げた。
「面白いじゃない」
ふふ、と、不敵な笑みを浮かべてウズメが言った。
「次の獲物はその娘。どう?」
「以前から思っていたが、お前は同性愛のケでもあるのか?」
「ん? あぁ、同性も何も私たちは性別無いから大丈夫」
「……大丈夫だとかそういう問題なのか」
唐突なウズメの言葉に貞彦も驚きの声を漏らす。
ウズメと話していて何度驚いたものだろうか、などと思いながら、疑問を投げる。
「どういうつもりだ? 何を考えてる」
「いや特に。ただそっちの方が面白いと思っただけよ」
何か考えでもあるのか、と思い、すぐさまその考えを取り払う。
ウズメは享楽を求める存在。ほんとうにただ面白そうというだけでなんでもするのだろう。
事実、貞彦に力を貸し与えていることにしてもただ面白そうだから、という理由なのだから。
「……まぁいいだろう。それに、面白そうと思えば面白そうなのも事実だ」
「じゃあけってーい。楽しませてね」
「あぁ、契約は守る」
ウズメを楽しませる。それが契約条件だった。
皐月の件に関しても結局のところはウズメが動かなければこうはならなかっただろう。
現状において貞彦がしたことといえば、衝動的に皐月を犯したこと程度。
「お前におんぶ抱っこのままでは癪だしな」
言葉ばかりの皮肉を口にして、貞彦は立ち上がる。
「どうしたの? 昆虫採集に出かけるの?」
「……この時期じゃ虫なんていないだろう。寝るんだよ」
こんな冬の真っ最中に飛んでいる虫などいないだろうし、そもそも貞彦には昆虫採集などという趣味は無い。
昔は虫を追っていたこともあったが、それは子供らしい一過性のものだ。今でも虫がいたからといって怖がったりはしないし、触ることを忌避することもないが、それでも別に好んで捕りに行こうと思うほどのことではない。
「皐月、風呂は勝手に使ってくれていい。服は……ウズメ」
「はいはい、私が用意しますよっと」
「じゃあな……おやすみ」
「おやすみ」
「よい夢を〜」
幼馴染と魔女の声を背に受けながら、貞彦は自室のある二階へと上がっていく。
しばらくして「この服着なよ〜」という魔女の声とそれに反抗する幼馴染の声が聞こえてきたが、無視をすると決め込んで眠りについた。