第捌話『惰性』
その日、貞彦はいつもよりも早く家を出た。
理由は簡単、皐月が家に泊まっていたからである。
一緒に登校すれば男女問わず何を言われるかわかったものではないし、これから進めていくことを考えれば、騒がれて貞彦に注目が集まるのは得策ではない。
何よりも、千堂の目を引いてしまうのが間違いないというのが問題だった。
だからこそ登校時間をずらそうと、家を早く出た、のだが。
「……どうしてお前も同じ時間に出てくる」
学校への道を歩く貞彦の隣には皐月が並んで歩いている。
それでは早く出た意味が何もない。
とはいえ、そう言いつつも待てと言われて皐月を待った貞彦にも大いに問題があるわけだが。
「だって、折角だから一緒に登校しようと思って」
「何がだって、なのかは知らんが、それじゃあ時間をずらそうと思って早く出た意味がないだろう」
そう口では言いつつも、貞彦も無理に皐月を返そうとはしない。
まだ時間は早い。よほど早い人間でない限りはまだ登校してきてはいないだろうと思っているからだ。
ちなみに、無理な理由をつけて「今日から私も転校する!」などとたわけたことを言っていたウズメに対しては厳重注意の上、それを禁止しておいた。
ただ注意した程度であの唯我独尊ぶりを正すことはできないだろうが、恐らくはもう、学校に行きたいなどと言ったこと自体忘れているのではないかと貞彦は思っていた。
ウズメの記憶力が悪いというわけではない。ただ、あれだけ刹那的な思考の持ち主であればそうであってもおかしくないと思っただけである。
「……そういえば、千堂梨緒はウチの学生なのか?」
唐突に浮かんできた疑問を隣を歩く皐月に向ける。
「うぅん。彼女、三つ下だから来年度入学だって。一応私たちの後輩だよ」
「そうか」
学校が近付くと、皐月は隣を歩くだけで自分から口を開きはしなかった。だが、その表情は昨日、教室にいた時のものとは違い、笑みを浮かべていた。
校門に到着する。貞彦の家は学校から徒歩で二十分程度の道のりである。皐月の歩調に合わせて歩いたために三十分ほどかかりはしたものの、未だ登校者の数はほとんどなかった。
一緒に来るつもりはなかったと言いつつもしっかりと歩調を合わせていた自分の癖に溜息を吐きながら、貞彦は校舎へと向かっていく。
皐月もそれに続く。もし誰かに見られたとしても、二人が特別仲がいいなどと思うことはないだろう、その程度の距離を保つ。
「早いね〜。おはよう」
教室へと向かう貞彦に声を掛けてきたのは見覚えのない女性だった。
貞彦と比べても歳はさほど離れていないだろうが、白衣を纏っていることから考えられる立場は多くない。
「蒼海先生?」
皐月が告げたその名前を聞いても、貞彦はピンとこない。
勿論、貞彦が知らず皐月が知る人物というのは相当な数にのぼるとは思われるが、それでも相手が教師であれば顔か名前かのどちらかくらいはわかるものだ。
「よくご存知で」
「何度かお世話になってますから」
「そうなの? いやゴメンね、私って忘れっぽくてさぁ」
言って、蒼海と呼ばれた女性は悪戯げに笑みを浮かべた。
発言からして、もし教師だとすればこの学校も末期だな、と貞彦は口にすることなく思う。
「っていうかそこの君、お前誰だよっていう感じでスルーしたよね?」
朝っぱらからテンションが高い。
誰かに似ていると思えばウズメに似ているのだった。
風貌や雰囲気こそ違うものの、相手を無視したハイテンションぶりはウズメのそれに近しいものがある。
「すいません。人の顔を覚えるのは苦手なので」
「そっかそっか。まぁ、生徒の前に顔出してないしね」
「は?」
「いやぁ、朝会で紹介されるはずだったんだけど、その時ちょっと一身上の都合で学校休んだから」
紹介されるような時に早速休むというのはどういう了見だろうか、と思いつつも、そこまで聞いてようやく彼女のことを思い出した。
変な養護教諭が新しく来た、というのは噂として広まっている。
ほんの数言の会話ではあるが、貞彦は彼女の破天荒ぶりを理解しつつあった。
「一応、養護教諭やってる蒼海霞です。基本的には保健室でゲー……じゃない、待機してるから昼寝したくなったり近藤さんやベッドが入用になったりしたら保健室をどうぞ」
あまりにもどうしようもない霞の発言に呆れつつ、改めてその容姿を確認する。
決して悪くはない。それどころか相当に高レベルといってもいいくらいだろう。
獲物の候補として挙げるのに不足ない、そう思って値踏みするように見つめていると、あることに気付く。
一見すれば奇妙な挙動をしているわけでもない自然体だが、獲物として彼女を見ると、不思議なほどに隙がない。
「……」
「どうかしたの?」
「いや、何でもないです。怪我でもしたら利用させてもらいます」
疑念は残しつつもこの状況下ではどうすることもできない。
下手に勘ぐられてはマズいと思い、貞彦は何でもないかのように否定した。
「ここんところ客入り悪くてさぁ。不景気のせいかな?」
「出入りが激しくて嬉しい場所でもないでしょう」
「いやぁ、主に少子化対策的な意味で」
「……いっぺん死んだ方がいいなアンタ」
この人は本当に教師なんだろうか、とそんな疑問が貞彦の頭には浮かんでいた。
*
惰性。そう、惰性だ。
この状況はただの惰性でしかない。
これだけ状況が変わったというのに、何事も無かったかのように授業を受けているのは妙なことだ。
貞彦は、あるいは自分が存外に混乱しているのかもしれないとも思う。
これほどまでに状況が変わってしまったからこそ、せめて地に足をつけていられる場所として学校を選んだのかもしれないと。
自分の深奥のことなど、自分でもわからない。
「まぁいい、か……」
最低限、必要なだけの術式の腕を得る。それが貞彦にとっての重要事。
頭の中で術式の術理を理解していく。何度か無意識の内に使いはしたものの、有効に用いるには知識や習熟が必須だ。
教師の言葉を右から左へと聞き流しつつ、貞彦は自分が今、すべきことを進めていく。
知識を欲すれば、知らないはずの知識が表層に浮かんでくる、その感覚は読書に似ている。
気になってウズメに聞いてみたところ「そりゃ私と繋がってるから」と、ウズメは答えた。
ウズメに力を貸与されているというのはその求めに応じて力を引き出しているということになるのだという。
引き出すための経路として悦楽の無双の欠片と繋がっていることから、その知識にアクセスすることが可能なのだろうとウズメは言った。
本人曰く、自分も知らないことですら引き出せることから、悦楽の欠片であるウズメを通してその本体、悦楽の無双自体の知識を引き出しているのかもしれないという話だった。
要するに、真面目に勉強するまでもなく知識はいくらでも手に入るものだということではある。
ウズメの言い分によれば、今のように知識を引き出して、ただ適当に術式を使うだけでもごく普通の術士を相手にするくらいならば問題ないとは言われていたが。貞彦はその優位性にあぐらをかいて何もしないつもりはない。
それはウズメに対して告げた、おんぶに抱っこで居続けるつもりはないという言葉に対する覚悟でもあったし、それ以上に単純な好奇心によるものでもあった。
元より貞彦はウズメが術式などという常識に乖離したものを用いていたことから興味を持ったのだから、ある意味当然である。
それに何よりも、知識があるからといって学ぶことを放棄するのはただの愚行だ。今の自分にできることとできないことを把握し、どういった状況でどのようなことをすれば効果的なのか、どういった制約がかかるのか、それらはその知識が必要になる段になる時にようやく知るのではなく、前もって知っておくべきことでもある。
趣味と実益を兼ね合わせた思考の海に貞彦は沈んでいく。
自分にとって最も適した術式はなんなのか、知っているはずもない知識の中からそれを探す。
あらゆる存在が存在しうるのに必要とされる力――干渉力の指向性を持った積極的行使による現象励起。それが術式の概要となる。
そして、その干渉力を外界へと行使する際に、持たせる指向性には個人差が存在する。その個人差によって術士が精神指向性、あるいは精神のカタチと呼ばれるそれぞれの個性を持つ。
そういった精神指向性は、基本的には血脈によって受け継がれ、洗練されていくものだが、生憎なことに術士の家系の出などではない。
しかし、ウズメというイレギュラーな存在によって術式を使えるようになってしまった。そんな例外中の例外である貞彦は自身の精神のカタチがどのようなものなのかわからない。
「どうしたものか……」
何もしないわけではないにしても、焦る必要がないというのも事実ではある。
まずは目先のことを――千堂梨緒についてのことを考えることこそ重要だと貞彦は思考を切り替えた。
ウズメの集めてきた情報にしてもそうだが、それ以上に本人と親交のある皐月からのものがあるため、情報は充分と言ってもいいほどに揃っていた。
家族構成は両親と姉妹の四人。最近は反抗期に突入しているらしいが、姉妹仲は良いらしく、その親友である皐月にも懐いているのだという。
性格は姉よりは若干内気ではあるものの、社交性がないわけではなく学校でも友人は多い。現在は何故だか生物部などという奇妙な部の部長をやっているという。
ここで重要なのは皐月に懐いているということと反抗期に入っているということだろう。
この時分、反抗期の学生が一日や二日ほど失踪するのは日常茶飯事とまでは言わないものの、探せばいくらでも出てくる程度のことだ。
梨緒のことを皐月に呼び出させ、拉致。あとは皐月の家に泊めるとでも美樹に伝えておけば充分だろう。
少なくとも、貞彦が拉致している、などというあまりにも突拍子もない現実に気付くわけがない。
そこまで考えておいて、貞彦は苦笑した。黒板と手元の間で視線をせわしなく移動させている美樹がすぐ右隣に座っているのだ。
よもや隣席の学友が妹の拉致監禁からの陵辱調教計画などを企てているなどと想像だにしないだろう。そんなことを考えられるのは予知能力者か、そうでなければただの変態である。勿論、実際にそんなことを計画している人間が言えた義理ではないのだが。
何事にしても大切なのは順序。梨緒のことが済めば、次は姉の番だ。
気付かれないように注意しながら、美樹の姿を見つめる。容姿もプロポーションも性格も、どの点にしたところで非の打ち所がない。
そんな彼女を、男を悦んで咥え込むような淫乱へと変えることを思い、ともすれば、暴走しかねない欲望を押さえつけながら、貞彦は放課後を待ち続けた。