第玖話『相対』
「……ウズメ、一つ問おう」
「どしたの?」
「……何故俺たちはこんなところにいる」
貞彦は今、公園の防火用貯水槽の裏、その茂みに腰を下ろしていた。
この歳になってまでかくれんぼなどをする趣味はないし、そんなことのためにいるわけではない。
「いや、だってレイパーがいたら出てきづらいものでしょ普通」
「そもそもそんな者がいる時点で普通ではないが」
だが貞彦が実際に強姦者なのだからあまり強い否定もできないわけだが。
「そも、どうせ拉致するのに何故潜む必要がある」
「スパイ的なノリよ」
「どの諜報機関に児童公園の防火槽の裏で待ち構える阿呆がいるんだ。お前のいつも使っているご都合主義な術式はどうした」
悦楽の無双、及びその欠片が得意とするのは感覚と空間に対する干渉である。
それ故に、相手にその存在を悟られないようにする隠行や、淫術のたぐいは十八番。まさにそういった所業に特化しているともいえる。
生まれからしてそこまで特化しているという点に関してやり過ぎ感が無きにしも非ずではあるが、そう産まれてきている者に対して文句を言ったところで仕方はない。
「ご都合主義って言われても困るわよ。まぁ実際、我ながら反則じみてるとは思うけど、一応術理だって存在するんだからね。それに皐月ちゃんに任せてとも言われたしね」
「アイツが? なるほど、と……来たぞ」
千堂梨緒が公園に現れたのを見て、貞彦が告げる。
皐月の呼び出しからまだ十分ほどしか経っていない。暇だったということもあるのかもしれないが、随分と信用があったのだろう。
その信用を利用している皮肉を感じつつ、改めて千堂梨緒の姿を観察する。
「可愛いじゃない。写真で見るよりもずっと」
ウズメの言葉に貞彦は首肯で答える。
同時に、その姿は写真で見る以上に幼くも見えた。
「……さて」
やや距離は離れているものの、術式を使えばその息遣いまで聞き取ることができる。
別にそんなものを聞き取る必要などないものの、必要充分以上の聴覚は発揮することができるということだ。
しかし、今のままではもっと遠くの話し声までもが混線してしまって話を聞き取ることができない。ラジオの周波数を合わせるように、聴覚を調整していく。
「珍しいね、皐月お姉ちゃんが私に用事って。もしかして、お姉ちゃんが何かしたの? そうだったら妹として愚姉に代わって謝るよ」
美樹は家庭内でどんな扱いを受けているのだろうかと気になりもしつつ、話を聞き続ける。
「うぅん。違うよ、むしろ最近、梨緒ちゃんも大変だと思ってさ」
「むぅ……そんなこと吹き込んだのお姉ちゃんね?」
「最近、お母さんと上手くいってないって聞いてるよ」
「そんなことまでお姉ちゃんは……」
顔を赤らめながら、梨緒は不満げに吐き出した。
「それで、差し出がましいとは思ったんだけど相談に乗れたらなぁ、って思って」
よくぞまぁ、あの清楚な表情からそんな嘘が口から出てくるものだと貞彦は呆れつつも懐かしく思う。
皐月は昔から変わってはいない。一本決めた道を逸れずに真っ直ぐ進むその心。そしてその見た目とは裏腹に、心根は誰よりも腹黒い。いや、その表現は正確ではない。皐月自身が悪意を持って接することは滅多になかった。だが、彼女の内面は歪なのだ。
「もしかして皐月ちゃんって……性格悪い?」
「……いや、まぁ、タチは悪いが」
誰よりも規範に正しいように思えて、その実、社会的倫理よりも友人を優先する。いつもはストッパーにまわっていた皐月も、時折暴走すると、むしろ止められる側に回っていたものだ。
今の皐月は暴走している時の皐月だ。とは言っても、何の考えもなく行動するわけではない。思考を回転させ、策謀を巡らせるからこそタチが悪いのだ。
「さて、どうするつもりだか……」
「ふふ。サダヒコ、楽しんでる?」
「あぁ……充分に」
意識するまでもなかったが、少なくとも貞彦は今、楽しいと感じていた。
それこそが最大の重要事。
皐月と梨緒は、それこそ本当に悩み相談のような状態で話を続けているのがわかる。
「行くか」
「え、どこに?」
「すぐそこに、だ」
「でも、今は皐月ちゃんが話してるでしょ」
「皐月もろともに拉致する」
「どういうこと?」
「そのままの意味……皐月は同じ被害者という立場からアイツを崩すつもりだ」
「……へぇ、成程ねぇ」
楽しそうにくつくつと笑い、ウズメは頷く。
「本当に頭のいい、それでいてタチの悪い娘ね」
貞彦は防火槽の裏側から一足で跳び出す。
跳んだ場所は梨緒の背後、ではなく、皐月の背後。梨緒からすれば正面にあたる位置だ。
「皐月お姉ちゃん! 後ろ!」
突然姿を現した貞彦に、梨緒が声を上げると同時、貞彦は皐月の首を極める。そのつもりになれば、一瞬で皐月を殺すことすらできる状況だ。
「動くな」
冷徹を装って貞彦は告げる。
「な、何? 何なの? 皐月お姉ちゃんを離して!」
「断る」
告げるや否や、貞彦は体勢をズラして皐月の首を極めたまま、梨緒の後ろに回る。
それに気付いた梨緒が声を上げるほどの時間もなく、極めた腕をはずして首筋に手刀を打ち込んだ。
当たり所がよかったというべきか悪かったというべきか、一撃で梨緒は昏倒した。崩れそうになる身体を支えたのは皐月だ。
「……悪女が」
「でも、よくやったでしょ?」
「まだ一概には言えないがな」
言いつつ、貞彦は昏倒した梨緒を肩に担ぐ。
何をするにせよ、この場にずっと居続けることは無意味だ。
だがしかし、そんな貞彦の行動を遮るものがあった。
「アナタたち」
いざ隠行を用い、梨緒を連れ去ろう、とその段になってそれを呼び止めたのは凛とした声。
硬質な声音には使命感のようなものが感じ取れた。
若干の焦りを感じつつも、それを表情に出さないようにして振り返る。そこにいたのは一人の少女。
一度も同じクラスになったこともなく、挨拶程度の声を掛けたこともないが、貞彦はその人物のことを知っていた。
抜群の器量とスタイルにキツめの碧眼、そしてやや金色味がかった自然な長髪は、彼女が異国の血を引いていることを表している。
「咲岡、彩乃?」
貞彦の学年において、あるいはこの学校全体を合わせても最も有名な人物というべき少女である。
名家の令嬢だという彼女は、そもそも何故こんな平凡な学園に通っているのかも奇妙なものであるが、それ以上にどこでそんな日本語を覚えたのかと問いたくなるような、それこそフィクションにでも出てくるようなお嬢様口調で、性格はこの上なく高飛車だというのだから、その上に容姿の要素を加えなくとも有名になるのは当然であると言える。「こんなところに何の用だ?」
警戒感を露にしつつ、貞彦は彩乃に問いをぶつける。
少なくともここは彼女が来るような場所ではない。
貞彦は彼女の情報を持っているわけではないから詳しくは知らないが、こんな時間に児童公園にわざわざ来るということ自体が不自然だ。勿論、そんな場所から少女を連れ去ろうとしている貞彦の方がよほど怪しいと言ってしまえばそれまでではあるが。
「染ヶ谷貞彦君に三嶋皐月さん、であってますわね?」
「何?」
名前を言い当てられたことに驚きつつも、内心の動揺を隠して彩乃を睨みつける。
「人の上に立つ者である以上、同窓の輩の名を全員覚えるのは当然の嗜みでしてよ」
つまりは彼女は同学年の人間全ての名前を覚えているのだということだろう。別段目立つことをしたこともなく、面識も無い彩乃が一発で貞彦や皐月の名前を言い当てたとなればその言葉が真実であると認めるしかない。
人の上に立つ、というおこがましい発言以上に、貞彦はむしろそちらの方に驚きを覚えた。
他人に興味のない貞彦は同学年どころかクラスが同じであっても名前と顔が一致しない者もいるくらいなのだ。
だが、だからといってただ驚いているわけにはいかない。今、この場において貞彦は犯行真っ最中。完全な現行犯である。
顔は見られ名前も身元も知られているとなれば逃げたところで何の意味もない。
要するに、とるべき行動は一つしかない。そしてその一つは、貞彦にとって好ましい選択肢でもあった。
「その娘を地面にゆっくりと置きなさい」
まるで刑事もののドラマか何かのように高圧的な態度で彩乃は命令を突きつける。
貞彦は皐月に視線で意図を交し合うと、それだけで意図が通じたのを理解し、彩乃の指示の通り、気を失った梨緒を地面に寝かせた。
「……男女二人で誘拐? 目的は身代金か何かかしら」
的外れな推理をする彩乃を見て、貞彦は思わず吹き出す。
「何がおかしいんですの?」
「お前のその口調もそうだが、その的外れな推理にな」
「どういうことですの?」
「営利誘拐なんかじゃないさ。端的に言えば目的は……」
「強姦ですね」
貞彦の言葉を皐月が継ぐ。その口調は、いつもとほとんど変わりないものの、どことなく不機嫌そうにも思えた。それは皐月をよく知っている貞彦だからこそわかる違いだ。そんな微妙な違いに気付く程度には自分が皐月のことを覚えているのだと感慨深くも思う。
皐月の言葉を聞いた彩乃は意外そうに眉を潜めた。
「……強姦? それを女性であるアナタが手伝うと仰るの?」
「はい。彼がそれを望むなら、私はどんなことでもします」
相変わらずの真っ直ぐな瞳で皐月は告げる。
「そう……で、あるならばアナタも同罪ね。私の街でそんな勝手は許さなくってよ? 運が悪かったわね」
「確かに」
苦笑しつつ、貞彦は思考のスイッチを切り替える。
身体に干渉力という力を通していく。綿が水を吸い込むように、身体の隅々まで力が浸透していく感覚――身体強化。
「あら、大人しくお縄につくつもりになったんですの?」
余裕のある口調の彩乃はしかし、意外なことに隙がない。ただ小説の読みすぎやドラマの見すぎというだけではないのはわかる。
彩乃が文武両道であることは話に聞いている。恐らくは、並の男子であれば容易にひねることができるほどの実力者なのだろう。
その上貞彦は何かスポーツをやっているわけでも、特別体格がいいわけでもない。彩乃が侮るのも当然と言えば当然かもしれない。
だが、それは見かけの上の話。貞彦には術式がある。そして、術式を用いさえすれば武の心得のない貞彦であってもアスリートを遥かに上回る身体能力を得、物理法則に反した現象を励起させることすらできる。
逃げることはできない。で、あればどうするべきか。
簡単な問題だ。
彩乃も一緒に獲物にしてしまえばいい。彼女には獲物とするのに充分な魅力がある。
だから、貞彦は彩乃の言葉に同意する。運が悪かった、と。
「……!」
彼我距離五メートルを、助走なく一歩で跳び詰める。
そのまま首筋に手刀を振り下ろし、その意識を刈り取りに掛かる。
「サダヒコ!」
不意に、先程まで身を隠していたウズメが大声を上げた。
一瞬何事かと戸惑い、そして次の瞬間には何故ウズメが声を上げたのかに気付き、再び戸惑う。
振り下ろしたはずの腕が止まっている。何もないはずの虚空で――否、何らかの障壁に阻まれて。
「まさかとは思ったけれどやっぱり……術士!」
「お前もか、咲岡!」
振り上げられる拳をほとんど反射的に後方に退くことで避ける。目の前すれすれを掠めていく拳に恐怖感すら覚えた。
第二の術式、知覚加速を発動する。それなしに彩乃の拳を避けたことは奇跡と言ってもよかった。
もしあの一撃を受けていれば間違いなく意識を逆に刈り取られていたのは自分の方だったと確信を持つ。
バックステップで距離を開き、体制を整える。
「……妙な結界が張ってあるから来てみれば拉致現場に出くわすとは思いもしませんでしたわ。そもそも、この街に私の知らない術士がいるとは、不覚ですが」
苦々しげな彩乃の声に貞彦は舌打ち。
彩乃は何もない場所から唐突に現れたように見えるウズメに驚いているように見える。
無理もないことではある。ウズメの能力は常識的には勿論、術式という存在を当然と認める術士から見ても尚、異常なものだとわかってきたからだ。
皐月は非戦要員であり、ウズメは戦うつもりがない。実際に矢面に立つのは貞彦一人だが、何も知らない彩乃から見れば三対一、それも高度な移動術式か隠行を使える術士が一人はいるという状況に見える。
この状況は貞彦にとってプラスにこそなれどマイナスにはならない。
「俺にしたって寝耳に水だ。ウズメ、どういうことだ?」
「どういうことって言われても……私だって知らないわよ。この街は宮並なんかと違って術士がほとんどいないはずなんだから。よかれと思って認識阻害の結界を張ったっていうのに」
「それが裏目に出たということか……」
貞彦も気付いていなかったが、ウズメは結界を張っていたらしい。それに気付いた彩乃がここに現れたというわけだ。確かにそれは感謝こそすれウズメを恨むのはお門違いだろう。
むしろ、逆に考えれば咲岡彩乃という極上の獲物をおびき寄せたと考えることも出来る。
「行け」
「え?」
「皐月と一緒にソイツを持って先に帰ってろ。すぐに俺も行く」
貞彦の言葉に、ウズメはしばし口を開いたまま停止する。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。確かにアナタと戦わせたら面白いかもとか思ったけど、一人で戦うには荷が重い相手だと思うわよ?」
「難しいことをやってこなすからこそ面白い、違うか?」
そう言って、笑みを浮かべる。強がりではあるが、勝算が全くないというわけではない。
その自信の根っことなる部分がウズメにもらった欠片の力であることは情けなくもあるが、それ以上に心強い。
貞彦の心中は昨晩、ウズメに告げた言葉そのまま。
「いつまでも、お前におんぶに抱っこでいるつもりはない」
「ふふ……言うようになったじゃないの。じゃあ代わりに……こっちの娘のことは私と皐月ちゃんに任せてくれない?」
「何?」
「並行作業って奴よ。そっちの方が面白そうだしね」
相も変わらず淫蕩な笑みを浮かべるウズメに貞彦は頷き、正面へと視線を移した。
「いいだろう。任せる……ッ!」
言い終えて、跳躍。
自分から開けた距離を一瞬で詰め、上段から拳を振り下ろす。
「甘いですわよ!」
彩乃の声が響き、先程と同様、虚空に浮かぶ障壁によって静止させられる。
だが、それでいい。ただ一瞬動きを止めればいいのだから。
その一瞬で、梨緒を背負ったウズメが走りぬけ、皐月がそれに続く。貞彦の意図に彩乃も気付くが、あまりにも遅い。
「ッ!」
「させるか!」
何らかのアクションを起こそうとする彩乃に横からの回し蹴りを放ち、当然のように彩乃は障壁でそれを防ぐ。
貞彦はそれから数発、連続で拳や蹴りを放つが、それは絶え間ないというほどに激しいものではなく、あくまで牽制のためのものに過ぎない。
二人の姿が見えなくなった頃になってようやく、貞彦は距離をとる。既に時間を稼ぐ必要はない。
「……まぁ、いいでしょう。あの方々は後程として」
彩乃は構える。爆発的に膨張する闘気、それだけで、彼女が今まで本気ではなかったことを貞彦は理解した。
「まずはアナタをこらしめて、話を聞くとしますわ!」
「やれるものなら、やってみろ!」
自らを試す意味も兼ねて、貞彦は彩乃へと大きく踏み込んだ。