第拾話『優越』


 宮並という街は、霊的に一つの異世界に近しいために術士の数が非常に多いと言われている。
 その多さと言えば、人込みで適当に石を三つ投げれば、一つは術士かその関係者に当たると言われるほどである。
 それが誇張のない事実とは言わないまでも、術士の人口は宮並他、異世界と霊的距離の近い場所に集中する傾向があるのは間違いのない事実だ。
 術式という力は、個人差があるものの、強力な者は個人が保有するものとしては科学技術の追随を許さないほどの力となる。
 では、術士のいない街にいけば術士同士の睨み合いが行われることもなく、好き勝手できるのではないか。
 その考えは間違っていない。しかし、術士の情報ネットワークは恐ろしいほどに緻密だ。
 たとえ人一人いない無人島で術式による事件を起こしたとしても、それが一般人の目につく可能性があると判断した途端、エージェントを送り込む。
 実際には治安維持専門の術士というのは数少なく、祓い屋や屠妖師、不定士などといった雇われの術士であることが多いものの、送り込まれる以上、その戦闘能力は絶大なものがある。
 術式の関係した犯罪などの事件は、そのほとんどの場合が彼らによって解決され、情報が偽装されて世に出される。
 術式という力は強大である。だからこそ、術士達は術式の存在を術士でない者に秘匿しようとする。科学技術だけの戦争ですら凄まじいほどの被害が出ているというのに、そこに術式という技術を加えるのは危険極まりないという考えからだ。
 勿論、術式の存在が広く知れ渡れば、現在術士たる者たちはその優位性を少なからず失うという理由も含まれているだろう。
 一般的に《隣の世界》と言われる、この世界と非常に近しい位置にある瑞垣においては科学技術と並列して術式技術が発展してきた。しかしそれははじめから共存していたために何の問題もなく共生しているのであるとされている。
 そういった理由をあわせて、術式は秘匿すべしという考えが術士一般に広まっている。誰か個人に対して術式の存在を教えることが罪に問われることはないが、それが社会に広まる可能性がある場合はその限りではなく、制裁が行われるのは不文律だ。
 それ故に、術士という存在は宮並などの、ごく限られた術士密集地帯を除いて非常に数が少ない。
 この善稜の街における術士の数は、一般的な街のそれと同じ程度である。
 だがしかし、咲岡彩乃は術士だった。





 染ヶ谷貞彦は軸足に体重を乗せ、飛翔。一気に彩乃との距離を縮めてくる。
 その動きは間違いようもなく術士のそれだ。術式の行使も無しにこれほどの身体能力を発揮することができるのは、一部の達人か、あるいは人外に属する存在のみである。
 突き出される右拳を加速した知覚で見切り、避ける。避けた先に待ち受けるように振るわれていた左の拳を後ろに退くことで回避。
 貞彦の攻撃を回避し続けながら、彩乃は思案していた。
 彼は何者なのか、と。
 その疑問について、表面的には既に答えが出ている。
 染ヶ谷貞彦。クラスこそ一度も一緒になったことはないものの、三年間同学年で過ごしてきた男子生徒だ。
 そして、この三年の間、一度として彼のことを術士として認識したことはなかった。
 どれだけ巧妙に隠したところで術士の存在に気付かないはずがないと思っていた彩乃にとって、それは大きな屈辱だった。
「染ヶ谷貞彦君」
「何だ?」
 二人の距離は近くもないが、遠くもない。
 拳も、蹴りも届きはしないが、一歩踏み込みさえすればそのどちらもがお互いに射程距離になるような距離。
 小声でも届くようなその距離で、彩乃は問いを放つ。
「アナタは何者ですの?」
「何?」
「恥ずかしながら、わたくしはアナタが術士であることを今の今まで存じ上げておりませんでした。三年間も同じ学年にいて、術士であることを私に悟られることなく居続けることなどできるわけがありません。アナタは、何者ですの?」
 胸の中の屈辱と共に、問いかけを吐き出す。
 その言葉は不遜極まるものではあったが、確かに的を射ていたのも事実だった。
「簡単な話だ。俺が術式の存在を知ったのは、つい一昨日のことだからな」
「なん、ですって?」
 彩乃にとって、その言葉は信じることのできるものではなかった。
 術式とは限られた者のみが扱うことのできる特殊な技能である。そう、彩乃は教えられて育てられた。
 そしてそれを行使することのできる自分は特別な存在であると。
 そもそも、術式は血脈と幼年からの鍛錬によって精神を開発していくもの。今更になってはじめようとしたところで本来ならばできるものではないし、もし仮にはじめたとしても、一朝一夕で身に付くものでは断じてない。
「冗句としても面白くありませんわよ?」
「ふっ……お前の口調の方がよほど冗談のようだよ」
 貞彦の右手に干渉力が集中し始めるのを彩乃は感じ取り、機先を制するために術式の構築を行っていく。
 術式の鍛錬には三つの段階がある。
 まず、生存に用いられている干渉力を、自らの意思で指向性を持って行使する段階。これが可能になると自分という存在の内部に対しての干渉が可能になる。この段階における術式が身体強化や知覚加速である。
 続いて、その干渉力を外部に向ける段階。自らと世界という存在の境界線を自己暗示によって薄めていくことによって、外界に対して干渉力を行使できるようになる。これによって放つことができるようになるのが一般的な術式だ。
 外界へ干渉する術式の中でも最も基礎的なのが、干渉力の塊を放出する干渉力弾。
 単純といえば聞こえは悪いものの、それゆえに用いる干渉力量を増やすだけで破壊力は増す上、手も加えやすい。
 その汎用性の高さゆえに身体強化や知覚加速に並んで、素人から老練者までの、一部の特例を除いたあらゆる術士が用いる基礎的な術式だと言える。
「悪いのはそちらです。殺すつもりはありませんが、もし死んでも恨むことなきよう」
 言葉に続くようにして、干渉力が彩乃の精神核ロザリアから引き出される。
 物質的に存在しないはずのそれは、しかし確かな輝きを持ってその存在を主張していた。
 一つ、また一つと、その数が増えていく。あくまで基本的なものとはいえ、その数が増えれば増えるほどに難度が加速度的に上昇していくのは当然のこと。
「確かに悪いのはこっちだ。恨みはしないが……」
 焦る様子も無く呟いた貞彦は、干渉力を集中させていた右腕を前に突き出す。
 おおよそ二十の干渉弾を一瞬の内に発生させた彩乃は、天上へと向けていた腕を振り下ろした。
 それと同時、貞彦の右腕から発生したのは幾何学的な模様の描かれた、厚さのない円陣。
 漫画などのファンタジー作品を知るものであれば、それを魔法陣とでも表現したかもしれないし、それはあながち間違った表現ではない。
 しかし、そこにはおおよそ意味のある記号を見つけることはできない。見た目はともかくとして、その実質はむしろ網と言った方が正しい。
 干渉力によって編まれた、術式の網。それは術式的相互関係を考えた上で配置された干渉力が陣のような形をとったに過ぎない。
 拳銃のそれに勝るとも劣らない速さで、干渉力の弾丸が貞彦へと向かい、そしてその術式網によって絡めとられていった。
 破壊力を失うほどに減速した干渉力弾は、まるで空気に溶けるかのように霧散していく。
「な……」
 驚きに思考を乱しつつも、彩乃はすぐさまそれを正す。
 彩乃の驚きは二つ。
 一つは、貞彦が最初に防御用の術式を用いたこと。
 彩乃が干渉弾の術式を紡いだのは、貞彦が術式を紡ぎ始めてからのことだ。何の考えも無く防御術式を紡いだのでなければ、貞彦は彩乃が先制で術式を放ってくるということをあらかじめ予測していたことになる。
 一つは、貞彦の用いた防御術式が彩乃の術式弾を全て防いだこと。
 初歩の術式とはいえど、あれだけの多重展開。取りこぼしがあっても不思議ではないというのに貞彦は全てを防いだ。
 どちらもそれ自体はありえないというほどのことではないが、貞彦のつい先日術式を知ったばかりであるという言葉を信じるのであればありえないと言っていいことだった。
 だから、彩乃はまだ《ありえる》選択肢を選ぶ。
「アナタのそれは少なくとも昨日今日術式の存在を知った者の術式ではありません。しかし、この街にそれほど高位の術士がいることを存じませんでした。もう一度問います、アナタは一体何者ですの?」
「……お前は勘違いをしている」
 何がおかしいのか、貞彦は笑みを浮かべて彩乃を見る。
 その表情を見る限りでは、見栄を張っているようには思えなかった。
「勘違い?」
「あぁ。俺は正真正銘、つい一昨日術式を知ったばかりの素人に過ぎない」
「この期に及んでそのような嘘に何の意味が?」
「何の意味もない。ただの真実だ」
 ありえない、と表層では否定しつつも、心の奥ではそれが真実なのだと彩乃は確信する。
 自らを特別な存在たらしめていた術式という技術の優位性が、土台から失われていくような不安。
 それらがごちゃ混ぜの混沌となって彩乃の思考を埋め尽くす。
「ありえない、ありえない、ありえませんわ!」
 思考の混沌は恐怖となって、彩乃に引き金トリガーを引かせた。
 術式の鍛錬における第三の段階、それはいわゆる《必殺技》の構築である。
 人、あるいはそれに限らずあらゆる生物の精神は特異的なカタチを持っている。その精神のカタチに合わせ、どのような術式の系統が向いているのか、どんな術具の形状が適しているのかを判断し、磨いていく。その過程で決まるのが得意な術式の系統である。
 有名なところであれば浅緋家であれば熱量操作を。藤代家であれば流体操作、その中でも気体の操作を得意とする家系である。RPG的な区別をするのであれば、浅緋家は火や氷の属性。藤代家は風の属性を持つと表現できる。
「干渉力はそのままでは不可視だ。なんとなくその存在を感じ取ることくらいはあっても、確かに認知することや、まして目視することなんてできやしない」
 貞彦の言葉を気にすることなく、彩乃は精神を集中させる。
 咲岡家の術士が持つ精神のカタチは流体、特に液体を操作することに適していた。自らの得意とする術式系統以外も当然ながら用いることはできるが、得意とする術式を用いた方が遥かに干渉力の効率もいい。
 だから、ほとんどの術士は自らの得意とする術式系統を練磨する。彩乃もそんな内の一人だった。
「だが、術式のほとんどは目視できる。その理由は何か。簡単だ。白熱球が光エネルギーを目的としているのに熱を発生させるように、干渉力もその制御のブレから、目的とした干渉外の余剰な干渉力が光となって目視可能としてしまっている」
 思考の中でイメージを描き、それを現実の世界へ映し出すように、
「つまり」
 世界という存在を、その一部を書き換えるように術式を展開する。
「余剰干渉光を出してしまう俺もお前も、未熟ということだ」
 瞬間、空間が輝く。
 干渉力が大気中の水蒸気を集め、足りない分は質量保存の法則を無視してこの世界へと実在させた。
「《大瀑布カタラクト》!」
 貞彦の言葉を打ち消すように、瀑布が発生する。
 空中から、水平方向に放たれた滝の流れは貞彦の姿を飲み込もうとして、
「吹っ飛べ」
 一言。
 貞彦の中から放たれた干渉力の塊が激流を呑みこんで行く。
 まるでブラックホールのような貪欲な吸収力を持って、彩乃の術式を、その精神のカタチが生み出した力を否定していく。
 拮抗は数秒。次第に力を失った瀑布が流勢を緩め、そして最後の一滴までを干渉力に呑み込まれた。
「一応、お前の問いには答えておこう。俺が何者なのか、と」
 貞彦は溜息を一つ吐き出し、告げる。
「俺は染ヶ谷貞彦。悦楽の欠片の力を授かった者だ」
 その一言で、彩乃は全てを理解した。


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