第拾壱話『友愛』
「はっ、はっ、はっ、はっ、はぁ……」
「大丈夫? 皐月ちゃん」
「はい……もうすぐ、ですし」
息を切らせつつ住宅街を駆けるのは皐月。
その横には梨緒を担ぎながらも息一つ切らさずにいるウズメが併走する。
いくら梨緒が軽いといったところで、気を失っている人間というのは存外に重い。それを担ぎつつもむしろ皐月に速度をあわせているように見えるウズメに皐月は感嘆の念を抱く。
術式というモノの話は貞彦に聞いていた。実際に何度か見ているし、その実在は疑っていなかったものの、いざ目にしてみれば想像を遥かに超えていたのもまた事実だった。
「もうすぐって、まだ五キロ以上はあるよ? 無理だよね」
「う……いえ、頑張り、ますから」
「……ん〜、頑張る子っていうのは素敵だけど、無理するのはまた別物。ちょっと失礼するわね〜」
そう言うと、ウズメは速度を落とすことなく、皐月の体を持ち上げ、左肩に担ぐ。
両肩に二人を担いだ格好になったウズメはしかし、むしろ速度を上げて走り続けるもその息が切れる兆候は一切ない。
それこそ歩いているのと変わらないかのような息遣いのままにウズメは走る。
無言の時が続く。
雑踏の声や車の音、ウズメの駆ける足音だけが耳に響く。
「ねぇ」
それを打ち破ったのはウズメだった。
「あのさ、皐月ちゃんってもしかするとやっぱり私のこと嫌い?」
恐れるような表情を浮かべ、不安げな口調でウズメは問いを向けた。
傲岸不遜で自由奔放という印象しかなかった皐月にしてみれば、そんな表情ができるのだということに驚きすらした。
「え?」
思いがけないウズメの言葉に皐月は目をしばたかせる。
「いや、だってあんまり話にノッてきてくれないしさ。それに皐月ちゃんのこと犯したりさ、そのくせ堕とせなかったしさ、サダヒコのことそそのかしたりさ、面白い服着せようとしたりさ、色々と嫌われる要素はあると思ってね。サダヒコの手前あんまり表立っては言わなかったかもしれないけど」
確かに、それだけのことをしておいて嫌われない方がおかしいのかもしれない。
だが、三嶋皐月はその、おかしい人の中の一人であった。
くすくす、と。
小さな笑みをこぼす。
「違いますよ」
「え?」
今度はウズメの方が目をしばたかせる番だった。
「そんな風に思われてたなんて思いませんでした。むしろ、私の方が天野さんに嫌われてるんじゃないかって思ってたんです。プライドを傷つけちゃったみたいですし意地の悪いことしてきますし……」
最後の方の言葉は疾駆する足音に掻き消えた。
「あ、え、そんな風に思ってたの? それはとんだ誤解よ? 私のプライドなんて二束三文で売れるような安っぽいものだもん。意地が悪いのは仕様です。皐月ちゃん可愛いから虐めたくなっちゃうしね」
そう言って、ウズメは微笑む。
沈黙は一瞬。
次の瞬間にはどちらからともなく笑い出していた。
「なぁんだ、私、嫌われてるんじゃないかってヒヤヒヤしてたのよ? どうでもいい相手に嫌われてもなんとも思わないけど、気に入った相手に嫌われるのすっごく怖くてさ」
「気に入った相手を虐めたくなるって、小学生じゃないんですから……でもよかった。私も天野さんに嫌われてなくて」
「でもさ、今更になって言うのも変だし一応自覚はあるんだけど、あんな色んなことをされておいて何で?」
ウズメの疑問に皐月は頷く。
「確かに恨んだり、嫌ったりする理由もあると思います。でも、それ以上に私は天野さんに感謝してるんです。ひっくんを変えて……うぅん、昔のひっくんに戻してくれたから」
「いや、それは……」
「あなたが自分のためにひっくんに力をあげたり、そそのかしたりしたんだってことはわかってます。私だけじゃなく、ひっくんも。でも、たとえそれが社会的に悪いことだとしても、その結果が生み出した今の状況が、私には嬉しいんです」
「親友の妹を強姦しようとしているこんな状況が?」
と、ウズメが冗談めかして言うと、皐月は神妙な面持ちで躊躇することなく頷いた。
「昔みたいなひっくんと、昔みたいに話すことができるなら、私には他に何もいりませんから」
それはウズメを気遣っての言動などでは決してない。
皐月の心の底からの、嘘偽りない本心だった。
「……ふふ、あははははははは」
皐月が迷いなく告げると、それを聞いたウズメは大声で笑う。
二人を担ぎながら笑声を上げて物凄い速さで走り去る少女など、誰かに見られでもすれば都市伝説モノだが、ウズメの隠行によってその心配はない。
ウズメはひとしきり笑い終えたかと思うと、目尻に涙を残しながら、満足げな笑みを浮かべた。
「良いよ、アナタ本当に良い。倫理観を天秤にかけるまでもなく捨ててサダヒコを選ぶその挺身! うん、やっぱり私の目に狂いはなかった。そこまで皐月ちゃんに好かれてるサダヒコが羨ましく妬ましい。もうそれこそまさしく愛だね」
「いや、あの……愛だなんてそんな……好きだとかそういうんじゃなくて……」
「何ぃ? この期に及んで別に好きだなんて言ってないなんてトチ狂ったことを言い出すの? 流行りのツンデレだってそこまで言ったら認めるわよ!」
「え、いや、あの……」
「……いやぁ、サダヒコも皐月ちゃんも本当に弄ってて面白いなぁ」
はははは、とウズメは笑う。
そうする間にも景色は流れていく。
「そうだ皐月ちゃん、天野さんってのはやめてくれないかな? なんか苗字ってよそよそしいしさ。ね?」
「いいですけど……じゃあ天野さんじゃなくてえっと……」
額に手を当て、数瞬の逡巡。
「天ちゃん?」
「サダヒコをひっくんって呼ぶのもだけど、アナタのネーミングセンスはいちいち発想の原点がわかりづらいわね……」
「えっと、駄目ですか?」
「あ〜、違う違う。やっぱり面白いなぁって思っただけ」
無邪気な表情を浮かべるウズメは無双の欠片などという存在には見えない。
それこそ、見た目相応の少女のように、皐月の目には映った。
「……改めてよろしく、かな。サツキ」
「はい。よろしくお願いしますね、天ちゃん」
「……って、この体勢じゃ握手できないわね。したら落としちゃいそう」
そう言って笑うウズメに釣られて、皐月も苦笑した。
*
「さて、とりあえずは俺の勝ちでいいな?」
「っ……今ので勝ったつもりですの? 私はまだ本気を見せてませんわよ?」
彩乃の言葉に貞彦は内心でほくそ笑む。
今の戦いはどう考えても正面から戦った上での結果だ。彩乃にもそれがわかっていないはずがない。
だが彩乃にはまだ何か奥の手があるのも事実だろうと貞彦は判断する。
だから決断する。
「成程な。だが本気で掛かられても困るんでな、反則技を使わせてもらおう……ウズメ!」
呼び掛け、貞彦は術式を展開する。
「ぇ……?」
背後に気配を感じ、彩乃が振り返った瞬間。首筋に一撃が入り、その意識を切り取った。
何ということはない。貞彦の言葉はただのブラフ。
悦楽の無双が得意とする術式は感覚の操作。感覚を狂わせ、背後に誰かが現れたように感じさせるのは造作もないことだ。
それに加えて自分の気配を消し、接近して一撃。
平時の彩乃に対してそれが有功だったかどうかはわからないが、少なからず動揺を見せていた今の彩乃には充分過ぎる効果を発揮した。
「……しかし、術士というのはこんなレベルなのか」
なかば呆れつつ、吐き出す。
「さて、あとはコイツを連れ帰る必要があるわけだが……やはり隠行か」
一口に隠行と言っても、その手法は一つではない。
気流を変化させて屈折率を変え、見えなくしたりするのも、自らの存在を認知させないようにする、あるいはその認知を薄いものにするならどちらも隠行といえる。
つまりは視覚や嗅覚などの五感、気配のような第六感などを欺き、相手の認識から外れる術式のことを総称して隠行というわけだ。
悦楽の無双の力を借りている以上、用いる隠行は一つ。
対象の認識をズラす。自分という存在に対する認識を非常に薄いものにする。触れたり、話したりしてしまえば存在に気付かれるだろうが、ただすれ違う程度であればたとえ彩乃を担いでいても気付かれることはない。
既に皐月を拉致した時にウズメが使っていた術式だったため、その効果の高さはよく知っている。
問題はウズメほどに上手く術式を使えるかどうかという点だが、それも悦楽の無双の知識を持ってすれば可能だろうと貞彦は思う。
「やるか……」
そう呟いて、貞彦は術式を展開した。
*
「……ふぅ。久々に運動するのも悪くないわね。たまには運動しないと太っちゃうし……よっこいしょ」
息一つ切らさずに貞彦の自宅に辿り着いた皐月はそうぼやきながら肩に乗せた皐月を地面に下ろす。
「今のは運動とかそういうレベルじゃないと思うんですけど」
「いやぁ、オスのヒグマ三匹くらいなら担いでさっきの速さでイケるわよ」
「一・五トンもって、術士って物凄いですね」
「よくヒグマの体重なんて一瞬で出てくるわね……サダヒコもよくわからないけどアナタも大概ね。まぁ、術士なら誰でもってわけじゃないわよ。私はこう見えても無双の欠片だからね。まぁ上には上がいるけど」
「もっと凄いのが?」
「えぇ。まぁ欠片でなくとも私以上の術士はいるけど、ここらの世界において最強と言われる三柱の欠片なんてもう……」
「最強の三柱?」
「そ。蜉蝣、羅刹、信楽って呼ばれるのなんだけどね。もうアレは意味がわからないレベルね」
術式に長け、とりわけ移動術式を得意とする放浪の欠片、蜉蝣。
身体能力に長け、一撃の破壊力や堅固な防御術式を持つ放縦の無双、羅刹。
術式も身体能力も高い水準で安定した能力を持つ悦楽の欠片、信楽。
どれも押しも押されぬ圧倒的な能力を持っていることをウズメは知っている。
ウズメは蜉蝣とは面識が無いものの、羅刹は何度か会ってそれなりに親交があるし、信楽に至っては同じ無双の欠片、つまりは兄妹のような関係だ。
「ちなみに信楽は私からすると兄にあたるのよね」
「そうなの?」
「兄さんはなんか独自の美学持ってるらしくてよくわかんないんだよね……ってまぁそんなことはいいとして、開けてよ」
鍵など無くとも開けることはできるものの、それをしたらどことなく貞彦に怒られる気がしたので自重する。
しばし待つと、ポケットから鍵を見つけたらしい皐月が扉を開けてウズメを招く。
それを見ているとふと、ウズメの中に疑問が湧いた。
「って、何で合鍵持ってるの?」
「作ったからですよ」
「……は?」
「昔、ひっくんに貸してもらった時に作っておいたんです」
「なんというか、凄いねぇ」
苦笑しつつ中へと入る。靴は脱がずに術式を使って分解する。
肩に担いだままの少女をどうするかと一瞬思案し、居間に手頃なものを見付けた。
片付けるのが面倒で敷いたままにしてあった布団。その上に梨緒を寝かせると、ようやくウズメは落ち着いて腰を下ろした。
「ふぅ……ねぇ、サツキはサダヒコのこと気にならないの? 私の力を貸してるとは言っても素人だし、相手がマトモな術士だったら……」
「大丈夫ですよ。ひっくんは大丈夫だと判断したからあの場に残ったんですし。それに……」
完璧なほどの笑みを浮かべ、皐月は続ける。
「天ちゃんは言いましたよ、梨緒ちゃんのことは私と二人に任せてって」
「まぁ言ったけど……」
「だったら、私たちは私たちで受け持った分担をこなさなきゃ。ひっくんは心配いらないし、私たちにはやるべきことがあります」
「あはは。まさか私が後押しされるとは思ってもみなかったわよ。前にもサダヒコが聞いてたと思うけど、罪悪感とかないの? サダヒコのためならなんでもするって心意気はわかるけど、自分から進んでやろうとするなんてね」
「天ちゃんは勘違いしてます。私だって天ちゃんに変なモノ埋め込まれてから体がサカってしょうがないんですから……」
意外な皐月の言葉にウズメは目を開閉させる。
そういえば皐月を堕とそうとした時に性欲の塊を植えつけたという記憶もある。
植えつけたと言っても、精神に干渉をかけてその部分の欲求を肥大させたに過ぎないのだが、結果としては同じだ。
「あ、あ〜、アレ。やっぱり効いてなかったわけじゃないんだ」
多少の効果があったことはわかっていたが、そんなものはすぐに消えてしまっているものとウズメは思っていた。
何より、皐月はそれに耐え切ってしまったのだから、大した効果をあげなかったとウズメが思うのも無理はない話だ。
「ほとんどやせ我慢ですよ。もう頭の中はエッチなことばっかりでオマンコもびしょびしょです」
「素面で卑語言われてもあんまり興奮しないなぁ。いや、悪いって言ってるんじゃないわよ? むしろサツキもそんなことを考えてるんだってわかって嬉しいもの。一緒に頑張りましょ。初めての共同作業ね」
「はい。あの子のあどけない顔から卑語が口癖になるくらいに徹底的にやっちゃいましょう」
皐月の言葉を聞いて、それを想像するだけでウズメは興奮を抑えきれなくなる。
今すぐにでもあの少女を手篭めにしたいという欲求、そして同時に、三嶋皐月という少女に対する親近感と好奇心が膨らんでいく。
「天ちゃん」
「どうしたの? 私、もう待ちきれないんだけど」
「私に考えがあります」
自信に満ちた口調で告げる皐月に興味をひかれたウズメは皐月の考えを聞き、そしてその悪辣さに歓喜の笑みを浮かべて同意した。