第拾伍話『解放』
日はとっぷりと暮れ、晴れ渡った空には欠けた月が美しく浮かんでいる。
目的のモノを見つけた貞彦は、ベランダに通じる窓を開ける。
「……ここにいたか」
「染ヶ谷、貞彦」
天を仰いだまま、平坦な口調で、異貌の美少女は貞彦の名を口にする。
彩乃の金色の髪は月夜に映える、と貞彦は声に出さずに思い、微笑を浮かべる。
「何をしていた?」
彩乃が自ら敗北を選択してから、貞彦はウズメに命じて彩乃を家へと連れ入れていた。
貞彦自身は更衣室の掃除を終えた皐月を待ち、夕食の食材購入に付き合ってから帰ったために随分と遅くなっていた。
「……少し、考え事を」
「そうか。お前は負けた。その意味を理解していない、というわけじゃないな?」
「えぇ。わかってますわ。私はアナタの……染ヶ谷貞彦の所有物(モノ)です」
貞彦へと向き直り、至極真剣な表情で彩乃は告げる。
「所有者を相手に呼びつけはないんじゃないか?」
「そうですわね。では、貞彦様と呼ばせていただいてよろしいですか?」
「あぁ……しかし、唐突だな」
なおざりに頷きつつ、貞彦は本来の目的である話題を振る。
「何がですの?」
「あの時、お前は俺を助けて自分から負けにいった。あのままならばお前の勝ちだったろうに」
理由に見等がつかないわけではない。
元より、マトモな一騎討ちでは勝ち目がないと考えていた戦いだ。
はじめから、彩乃が勝ちを躊躇う、あるいは負けを選ぶという可能性は考慮に入れていたし、そうなるように仕組んだのは貞彦である。
「……理解なさってるはずでしょう? その理由も。全ては、アナタの思惑通りに進んだのですから」
「そこまでわかっているならば、わざわざ言わせようとする理由も察しろ」
「口に出させて恥辱を味あわせる、ということですのね」
「まぁ正解と言えば正解だが。俺は付き合いの短いお前が何を考えているかなど、当てる自信もない。だからせめて、口頭だけでも本人の口から聞いておきたいということの方が大きい」
親友などの、心の通じ合う相手であれば、ある程度は何を考えているのか想像することもできるだろう。
だが、その想像したものが本当に正しいかどうかまではわからない。
本人がそれを本気で隠そうとしているのであれば、どれだけ注意深く見たところで気付かないこともある。
しかし、本当は伝えたくて、しかし言い出すキッカケがなかっただけならば、それを伝えるキッカケを作る必要がある。
「たとえどれだけ近しい者同士であっても、その心情を完全に理解することなどできはしない。どれほど近しくとも、口で言わなきゃ伝わらないこともあるんだからな……」
「何か、あったんですの?」
「……無駄なことを言ったな。気にするな、あったとしてもお前には関係ない」
思わず零れ出した内心に、貞彦は顔をしかめて首を振る。
「所有物たるならば主人の憂慮は掃うべきかと思いますわ」
「だとしても、今はそんなことどうでもいい。さっさと話せ」
「……はい」
心配げな表情を崩さないままに彩乃は頷いた。
「私は……張形を入れられて、大人数に犯されて、それでも快楽を感じていましたわ」
「術式のせいだろう。そういった術式を使っていた」
「だとしても、私はもう、快楽から逃れることはできないのです。それに」
「それ?」
「今まで、私は自分の弱さを認めようとせず、ただ矜持に縋っていたのです」
彩乃の告白に貞彦は驚く。
まさかそれを自覚しているとも、まして認め、口に出すとは思ってもいなかった。
「快楽に呑まれ、私は自ら負けを選びました。ですがそれをキッカケに、私は改めて自分を見つめなおすことができた気がします。決して強い術士などではなく、弱い淫乱な牝としての自分を。ですから、ルールだからと、ただそれだけの理由ではなく……私は、アナタに仕えたいと、アナタのモノになりたいと思います。お許しいただけますか?」
語る彩乃の表情に偽りの色はない。
まさしく本心からそれを告げているように見えた。
「許すも許さないもない。お前は俺のモノだ。お前がそれをどう思おうとお前の勝手だ」
「あ……ありがとうございます」
「一つ聞きたい」
貞彦は彩乃の言葉を聞いて浮かんだ疑問を口にする。
「お前は自分を見つめなおすことができたと言ったな?」
「はい」
「その上でお前は、術士という立場に未練はあるか?」
紡ぎ出された問いに、彩乃が浮かべるのは困惑の表情だ。
「それは、どういう……」
「どうもこうもない、そのままの意味でとればいい」
「……未練、それ自体はないのかもしれません」
「引っかかる物言いだな」
「私自身、正直なところ戸惑っています。術士という存在に持っていた矜持が失われ、絶望するはずなのに、むしろ解放感すら感じているのです。術士としての力を失ったことで、ただのヒトとなれたような気がして」
「成程、やはりな……」
首をかしげる彩乃に、一呼吸を置いて、貞彦は続ける。
「ヒトはあくまでヒトだ。たとえ術式という力を持っていようといまいと、同じヒト。その力の有無は経済力の有無と大差ないものだ。その力に責任感など感じる必要はない」
厳しい口調のままに彩乃にぶつける。
その視線はまっすぐに彩乃へと向けられている。
「自分の考えを持つなとは言わない。もしそれが、お前自身が、自らの思考の末に辿り着いた結果だというのであれば、俺も否定はしない。だが、お前の優越意識や義務感はそうじゃないように俺には思える」
貞彦には、彩乃の考えがあまりにも薄く、軽いものに思えていた。
快楽に負け、すぐに手放したということもある。そして彩乃の解放感という言葉を聞いて確信した。
彩乃の考えは、彩乃の考えだと彩乃自身が思っているものは、彩乃にそう教えた者の考え方に過ぎないのだと。
「だから俺はお前に命じる。生まれ変われ、と。失って解放されたと思うくらいならば、優越意識も義務感も、全てを捨てて、俺のモノとして。その上でまた同じ結論に至るなら、俺はそれを肯定しよう」
その言葉で、固まった彩乃の表情が緩む。
唐突に流れ出す涙滴に、貞彦は驚きの表情を浮かべた。
「何で泣くんだ」
「……いえ、ただ……嬉しくて」
「嬉しい?」
「……ありがとう、ございます」
「これは俺の考えの押し付けだ。感謝されるようなことはしていない。恨まれこそすれな」
「いえ、充分に、感謝すべきことですわ」
「あまりかしこまられても困るというのが本音ではあるがまぁいい。それよりもその口調をどうにかしろ」
「口調、ですの?」
「あぁ、そのエセっぽいお嬢様口調を……すぐにとは言わんが、改善の意思は見せろ。どうにもその口調はな。中途半端に入ったり消えたりするのが気になってたまらん」
苦笑しながら貞彦は告げる。
今まで彩乃と話したことのなかった貞彦も、彼女の口調については以前より話に聞いて知っていた。
そして実際に言葉を交わして、その口調の奇怪さに驚きもした。
「貞彦様がそう仰るのでしたら」
恭しく頷いて、彩乃は微笑む。
そのまま、二人の間には沈黙が下りる。
どちらが先というでもなく、二人は空を見上げた。
「あ、あの……」
しばらくの沈黙を、彩乃が破る。
「なんだ?」
「ず、図々しい願いだとは承知しています。ですが、その……」
「……言え」
「私を、犯してください」
「成程、な。そんなことが望みか、淫乱」
「はい……貞彦様がよろしいのであれば」
「……いいだろう、抱いてやるよ。お前が俺のモノになった記念として、な」
そう言って、貞彦は笑った。