第拾陸話『孤独』


 朝、ウズメは奇妙な臭いを感じ取って目を覚ました。
 あくまで身体機能面では二、三日寝ない程度でどうにかなってしまうというわけではないが、睡眠欲というものはある。その上、この時期の二度寝は外の寒さと布団の中の暖かさのギャップもあって、至上の快楽の一つだとウズメは思っている。悦楽の無双の欠片たるものが、その程度を至上の快楽としているのもどうなのだろうかと自問することもあったが、それでも好きなものは好きなのだから仕方がない。
 時間は、と考える必要もない。様々なしがらみに囚われることのないウズメにとって、今が何時であろうと関係のないことだからだ。
 折角だから二度寝でもしようと思い、ウズメは自分が目を覚ました理由を思い出した。
「臭ッ!」
 異臭。
 喩えるならば――
 考える前に、ウズメは階段を駆け下りていく。
 そこに広がっていたのは、ある意味で予想通りの光景だった。
 黒い。周囲が黒煙に包まれている。
 ――そう。喩えるならば、何かが焦げたような臭い。
 そもそも、喩える必要もなく、それは何かが焦げた臭いそのものだ。
 キッチンに目を向ければ、そこには元がナニモノだったのかすらもわからない黒塊の姿があった。
 そこに立つ少女が、ウズメの気配に気付いてビクンと跳ね上がる。つい先日の姿からは想像もつかないその動作に思わず笑みが零れた。
「ぁ……ぁの……」
 恐れるように、少女は上目遣いでウズメを見る。
 ウズメには彼女が何をしようとしていたのかも、何故恐れているのかもわかってしまった。
「あらら……」
 どこか悔しそうに、それでいて泣きそうな表情で少女――咲岡彩乃は俯いた。
 この家にいる他の面々も、この異臭に気付いたのか二階や別室からキッチンへと集まってくる。
 皐月が、梨緒が、そして貞彦がやってくると、彩乃は顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうだった。
「彩乃」
「……はい」
 貞彦の言葉に、彩乃は俯いたままで答える。
「この惨状の原因はお前だな?」
「……はい」
「何をしようとした? ……などということは今更聞かん」
 当然だろう。誰がどう見たところでこの光景が表すものは一つだ。
「どうしてこんなことを?」
「朝食を、お作りしようと……少しでも、お役に立ちたくて……」
 彩乃の顔はどんどんと俯いていく。
「参考までに聞いておくが、メニューは?」
 涼しい顔で貞彦は問いかけを続ける。
「グラタンと、お味噌汁を」
 彩乃の回答に、その場の全員が頭上に疑問符を浮かべた。
「成程……ってそれが何故こうなる」
 見事なノリツッコミを決める貞彦。
 貞彦が生粋のツッコミ体質だと薄々感じていたウズメは軽く笑みを浮かべる。
「そもそもメニューからおかしいと思うんだけど……朝食としても、その炭素塊ができるにしても」
「そう、なのですか?」
 昨晩まで料理を担当していた皐月の言葉に、彩乃がはっとしたように問い返す。
 料理など作りはしないウズメだが、それでも朝食にグラタンと味噌汁という組み合わせが明らかにおかしいということくらいはわかる。
 そもそもこの間違いは料理をするしないというレベルではないが。
「よし、彩乃。お前は料理を作るな」
 賢明な貞彦の判断に全員が頷いた。
 渋々といった様子でもなく、哀しげに頷いた彩乃を見て、貞彦は溜息を吐く。
「……チッ、わかった。別に料理を作るなとは言わん」
「え……?」
 一瞬で前言を撤回した貞彦に彩乃を含めた全員の視線が集まる。
「まずは皐月に常識を教われ。一人で料理をするのはそれからだ。いいな?」
「あ……はい!」
 活き活きとした表情で彩乃は首を縦に振る。
 初めて会った時――といってもつい先日だが――の彼女は、もっと自尊心の強い存在だった。
 それを貞彦が折ったというのはわかっている。だから彼女が快楽に堕ちることに疑問はなかった。
 ただ、今の彼女は以前とは違う。重荷から解き放たれたような、そんな解放感すらも感じる。
「ふふ……」
 変わった彩乃を、そしてこの家にある雰囲気を感じて、思わずウズメは笑みを零す。
 今、ウズメは確かに楽しいと感じていた。
 何故? そう自問しても答えることはできない。そもそも、答えを出す必要などないのだから。
 彼女の父とも本体とも呼べる存在である悦楽の無双はただただ肉欲を追い求めたとされている。兄たる悦楽の欠片の第二片、信楽もそれに倣ってか、あるいはその精神の根幹にあるものがそうさせるのか同様だ。ちなみに『されている』と伝聞系なのはウズメ自身、悦楽の無双という存在の記憶がないためだ。
 ウズメも同じ。その心の赴くままに肉欲を貪ってきた。外見の年齢とは裏腹に、彼女は驚くほどの時を生きている。
 しかし、彼女は変わった。自分でそう自覚するほどに。その原因は何かなどと悩むまでもなく明確だ。
 出会い。そう、一つの出会いが彼女を変えた。
 それは貞彦との出会い、ではない。そもそも、以前のウズメであればもっと手早い方法を選んでいたことだろう。
 貞彦に力を与え、選択させた。それは彼女にとっての大きな変化だ。
 彼女を変えた出会い、それは信楽、蜉蝣と並び世界最強と称される至上の欠片、放縦の欠片、羅刹との出会い。
 天野細女にとって、生きるということは退屈という名の恐怖と隣り合わせのものだった。
 悦楽の無双の第三片として、成長することも、まして老いることもない肉体を持って生まれた少女はただ恐怖を抱いていた。
 終わることのない永遠の生への恐怖を。
 その恐怖を紛らわせるかのように、その名の下に悦楽を貪ってきた。
 仲の良いカップルの欲望を操作し、別のカップルの男女とそれぞれ交わらせたことも。
 良妻賢母の好例ともいうべき女性を、ホームレス達に無償で体を売らせるような淫らな牝に変えたことも。
 恋心を抱いていた女性に裏切られた冴えない男に、報復のための力を与えたこともある。
 ある者は破滅し、ある者は楽園を築いた。
 そんなウズメに、偶然にも出会った羅刹は問うた。本当に楽しいのか、と。
 自分の行動に疑問を抱いたことのなかったウズメは、はじめて自分に疑問を抱いた。
 それ以降、あらゆることがウズメの心に何の潤いももたらすことはなかった。
 一時は楽しめども、それだけ。悦楽への渇望と退屈への恐怖が、強迫観念のようにウズメを突き動かしていた。
 二度目の出会いは偶然ではなかった。
 放縦。自由にして奔放の名を冠する彼女は、一体どのように生きているのかと、それを問うために彼女に会った。
 問い掛けに羅刹は言った。思うがままに楽しめばいいのだと。
 ウズメは問い返した、それでも私は渇くのだと。
 そっか、と羅刹が告げたのは一言だった。それをウズメは否定した。語ることはもうないと、羅刹の元から去った。
 実際、貞彦に力を貸したのも今までどおり、その場しのぎの楽しみのつもりだった。宣言通りに欲望の箱庭を作れれば面白いし、無理ならばそこまでの男だと見切るつもりだった。
 だが、羅刹の言葉は確かにウズメに影響を与えていたのだろう。今になってようやく、ウズメは思う。
 今、ウズメの心にはこれまでにない思いが生まれていた。
 彼は、彼らは面白い。そうウズメは思う。
 彼らは、ウズメに今までにない充足感を与えた。自身の持つ底のない悦楽への渇望すらも忘れてしまうほどに。
 だからこそ、焦がれる。その気持ちが何なのか、わからないまま。
 羅刹が告げた言葉が、今になって思い出される。
『アンタ、寂しいのか』と。
 あの時は否定した言葉を、今ならば違った意味で否定することが出来る。
「寂しい、か……」
 コントのようなやり取りを視界の端に置きながら、ウズメは思わず呟いた。
「天ちゃん、何か言った?」
 耳ざとく聞きつけた皐月が問い掛けるが、ウズメは「なんでもない」と首を横に振る。
「私はもう、寂しくなんてない」
 小さな、それこそ口の中で消えてしまいそうなまでの小さな独白は、染ヶ谷家の喧騒に紛れて消えた。


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