第拾捌話『感謝』
「あら、どうしたの?」
気絶させた霞に失神した皐月、彩乃、梨緒の三人を加えた四人を背負い、予定外の帰宅をすることとなった貞彦を迎えたのは、当然のごとくウズメだった。
「って、随分と重そうね」
「……別に重くはないが。まぁ面倒だったのは事実だ。頭痛が酷い」
溜息交じりに答える貞彦の言葉は単なる強がりではない。
身体強化をはじめとした多種複合術式は、四人の人間を同時に運んでみせるという荒業をこともなさげにこなした。
あくまで肉体的な負担という意味であれば貞彦の受けたものは少ないが、むしろそのための多重複合術式の展開は貞彦に負担を掛けていた。
いかに悦楽の無双との繋がりができているとはいえ、貞彦自身はただの人間に他ならない。本来、術士としてそのレベルに到達するには数年、あるいは数十年もの年月を要することすらありうるというのに、それを無理矢理外部からの補助で成しているのだから当然のことだ。むしろ頭痛が酷いの一言で済む程度であること自体が、貞彦と悦楽の無双との親和性の高さを表しているともいえた。
「何があったのかは……まぁ、大体想像つくわね」
どことなく安らかな表情で意識を失っている三人を一瞥し、ウズメは苦笑交じりに言う。
「気には食わんが、恐らくはその想像通りだろう」
「でも一つ質問」
ある意味で予想通りである言葉に、貞彦は頷いて問いを促す。
「彼女は?」
顎で指されたのは、気を失ったままの蒼海霞。
貞彦は「あぁ」と一言だけ答えて居間へ向かい、乗せていた四人を畳の上に寝かせた。皐月、彩乃、梨緒の三人のみならず、霞までもが幸せそうな表情を浮かべて寝息を立てているのを見て呆れつつ、ウズメへと向き直る。
「名前は蒼海霞。梨緒の従姉にあたるらしい」
「ふぅん。それで、彼女も犯っちゃうつもりで連れてきたの?」
「あぁ。特別な理由があるわけではないがな」
「ふふ、サダヒコもわかってないなぁ。うぅん、むしろわかってきてるのかな?」
嬉しそうに、童女の笑みを浮かべてウズメは告げる。
「楽しそうなことに理由なんていらない。それが悦楽の系譜に連なる者のスタンスだってね」
「成程、な。あぁ、確かにその通りかもしれないな」
言って、貞彦は微笑。
「そういえばサダヒコ、この後どうするの?」
「本当ならばコイツらは学校に行かせるつもりだったが……」
そこで言葉を切り、三人の寝顔を見て溜息一つ。
「これではな」
「起こそうと思えばできるけど……可哀想だしね。サダヒコ自身は?」
「休むつもりだったが、彩乃はともかく皐月と同じ日に休むというのは美樹に不信感を与える可能性がある。仕方がないが行ってくるさ。元より、最初はそののはずだったしな」
「じゃあ、私は彼女を見張ってろってこと?」
その問いに、貞彦は「あぁ」と頷きはせず、
「頼めるか?」
と、問うた。
その返しに、ウズメは一瞬、ぽかんとした表情を浮かべ、笑みを浮かべた。
「ふふ……いいよ、行ってらっしゃい。頼まれたからにはやり遂げないとね」
「ん、ぅう、ん……」
うめき声に視線をずらしてみれば、畳の上に寝かせていた皐月が起き上がるところだった。
「あれ? ここ、は……?」
「呑気なものだな」
貞彦の言葉で、皐月は何が起こったのかを理解したらしく、皐月は気まずげに俯く。
「ぁ、えっと……ごめんなさい」
「やり過ぎたのは梨緒の責任だ。それ以前にけしかけたのは俺だからな。どちらにせよ責めるつもりはない」
息一つの間をおいて、貞彦は続く言葉を紡ぐ。
「それで、お前は?」
「え?」
その言葉が何を指しているのかわからず、疑問の声を漏らした皐月にウズメが「学校」と一言耳打ちする。
「あ……うん。今何時?」
「七時二十分前くらいね」
「七時十六分だ」
皐月の問いに対する二人の回答はほぼ同時。しかしその答え一つで二人の性格の違いが如実に表れていた。
「こ、細かいわねサダヒコ……」
「そういう性分でな。それで、お前はどうする」
「うん、行くよ」
いつも通りの真っ直ぐな瞳で、皐月は即答する。
「だってひっくん、もう決行するつもりなんでしょ?」
「……何?」
何ということはないと言わんばかりの皐月の言葉に貞彦は驚き、そしてすぐに納得した。
確かに貞彦は、今日このまま学校へ赴き、美樹を捕らえるつもりでいた。それはあくまでつもりだったというだけであって、三人にも、ウズメにも話していない。
だが、皐月とは長い付き合いだ。どういった状況で貞彦がどのような判断をするのかわかるのだろう。
「それにしても一瞬で言い当てられるとはな。皐月の観察力を舐めていたかそれとも俺が単純すぎるのか……どちらでもいいか」
自嘲するように小さく呟いて、貞彦は鞄を肩に掛け直す。他の二人と加えて一人は相も変わらず起きる気配もない。
彩乃はともかくとして、梨緒の方はこのまま行かせなければ学校を通じて家へと連絡が行き、美樹の耳に入るのではないか、微かにそんな危惧も抱いたが、既にそんなものは不要だということに気付いた。
梨緒は皐月の家に泊まっているということにしているのだと聞いている。体調が優れないとでも言っておけば問題はないだろう。
それに、狙う獲物である美樹は今日の内に押さえるつもりなのだ。今更不審に思われたところでどうということはない。
もし仮に想定外の何かがあった時でも、その時はその時だと貞彦は楽観的に考える。ウズメの楽天的な考え方に毒されていると感じつつも、それを悪くないと貞彦は感じていた。あるいは、昔の考え方に近付いているのかもしれない、とも。
「お前の言うとおりだ。別に隠すつもりがあったわけでもないが」
以前、皐月は言った。昔のように戻ってくれ、と。貞彦はそれを不可能だと一蹴した。そう、戻ることはできない。決して。
だが、今は思う。意識することなく、あの頃のように戻ることができるなら。
欠けてしまった欠片は戻ることはなくても、別の欠片で補うことができるのなら。
それも、悪くないのではないか、と。
「そっか。じゃあ、やっぱり行くよ。私でも、何か役に立てるかもしれないし」
「いいだろう……なら行くぞ。さっさと準備し直せ」
ぶっきらぼうな口調ではあったが、その言葉に皐月は表情をほころばせた。
「え? でも、いいの?」
「何がだ?」
「だって、一緒にいるところを見られると面倒だからって……」
「あぁ、そのことか」
貞彦は納得して頷く。
「昨日も今日も、ダメと言ったのについてきておいて、何も言わなければ不満か?」
「うぅん、そんなんじゃないけど」
「今更になって、いいのか? も何もないだろう。それに……」
続けようとして、しかし貞彦は首を横に振る。
言おうとしていた言葉を呑んで、別の言葉を告げる。
「三人も四人もとなればともかく、二人ならば目立ちはしないしどうとでも言える」
それに何よりも、報いていないから。
あれだけのことをしたというのに、彼女は恨み事一つ言わずに、自分の意思でついてきてくれている。
それは自分の望んだことで、そうなるように仕組んだのは貞彦自身だとはいえ、そんな無償の挺身に何の感情も抱かないように貞彦の心は冷めてはいない。
「行くぞ」
皐月が服を正し、荷物をとったところで貞彦は動き出した。
「うん」
嬉しそうに笑顔を浮かべ、皐月は貞彦に続く。
確かに抱いたその感謝という感情。だからこそ、報いたかった。
だがそれを、貞彦は決して口にはしない。口にすることは彼女の無償の挺身を踏みにじることだと貞彦には思えたからだ。それに何より、わざわざ口で伝えずとも、その気持ちは伝わる程度の仲ではある。
梨緒に対しても、彩乃に対しても、そしてウズメに対しても、貞彦はそれぞれ別の感謝を抱いていた。
だから。
「少しくらいは、な……」
一緒に登校する、そんな程度で報いているなどと考えることは自意識過剰か、と思い、貞彦は苦笑する。
「ひっくん、何か言った?」
貞彦は首を振り、それを否定。
「何でもない。ただの独り言だ」
内心を隠すように、そう告げた。