第拾玖話『友達』


 もう余裕などないのだと、そんなようなことを初老の教師が熱弁するのを貞彦は欠伸交じりに聞き流す。
 教師と目が合うと、無言で睨まれる。あとで説教されても面倒だと、貞彦は軽く頭を下げておいた。貞彦のその動きに初老の教師は一瞬、眉を潜めたが、仕方がない奴だと言わんばかりに苦笑して進路の話に戻る。
 既に耳にたこができるほどに聞いた話だ。進路に欠片ほどの興味もない貞彦は当然として、そうでない生徒たちもいくらか、はまだ終わらないのかと言いたげだ。
 参考書を読んでいるのは良い方で、机に突っ伏していたり、携帯電話やゲーム機をいじっている生徒までいる。大丈夫なのか、と貞彦は疑問に思いつつも、自分には関係ないと思考を止めた。
「染ヶ谷君」
 隣の席から、やはり飽き飽きとした様子の美樹に声を掛けられ、貞彦は意識を引き戻す。
 彼女が何か言いたげにしていたのはわかっていた。彼女は目下の獲物だ。その動向は意識せずとも気にはなる。
 今朝から彼女はずっと、注意散漫気味にしていた。自意識過剰と思いつつも、貞彦は美樹が自分に何かを言おうとしているのではないかと予想していた。
「どうかしたの?」
 問いかけに、貞彦はその問いの意図を問いで返す。
「どうかした、というと?」
 美樹は「う〜ん」と首をかしげ、
「なんていうか最近の染ヶ谷君、なんだか変だから」
 鋭いな、と貞彦は美樹の勘に驚きつつ、以前と違っただろうか、と自分の言動を振り返る。
 貞彦は今までと比べて別段変ったことをしたつもりはない。少なくとも表面上は、であるが。
 だが、気付かれたということは何かしらいつもとは違ったのだろう。内面に変化があったのは事実だ。とはいえ、具体的に何とは言わないように、何が起きているのか、自分が何をしているのかまでは気付いていないのだろうと貞彦は判断する。
「いや、別に」
 平然と、貞彦は虚言を吐く。
「そっか」
 美樹は微かに視線を下げると、そう呟いた。
 しばしの逡巡を経て、何かを決心したように美樹は頷き、告げる。
「放課後、屋上に来てくれない?」
 予想外の言葉に、しかし貞彦に断る理由はない。
 面白いと、そう思いつつ、貞彦はなおざりに首肯した。





 屋上は静かなものだった。
 立ち入り禁止になっているというわけではない。しかし、春や夏ならばともかく、この季節に屋上に来る人間はほとんどいない。
 肌を刺すような冷たい風が扉を叩き、勢いの良い音を立てて閉まる。
 あるのは、ただ一つの人影。
 時期も時期だ、既に日も落ちかけており、夕陽が逆光となって少女を照らしていた。
 絵になるな、と貞彦は心の奥で呟く。
「千堂」
 貞彦が呼びかけると、ツインテールの軌跡を残して少女は振り向いた。
「来てくれたんだ」
 微かに笑みを浮かべ、しかしどこか哀しそうに美樹は告げる。
 そんな自分の思考で貞彦は理解する。彼女の表情の機微が判断できるように、彼女も自分の変化を感じ取ったのか、と。
「あぁ」
 何故そんな顔をする? と問いはしない。
「何の用だ?」
「私って、頼りなく見えるかな?」
 問いに対しての美樹の答えは、答えではなく問いかけだった。
「何を言ってる? 用があるならさっさと……」
「真面目な話だよ」
 貞彦の言葉を遮った美樹の口調は固い。
 いつも教室で話すような、親しみやすいといわれる少女のそれとは違う。
 真っ直ぐな視線が貞彦を止める。射竦められたかのように、貞彦はその視線を見返す。
 その口調を、視線を、貞彦は知っている。
 それはまるで、皐月のような、真っ直ぐな口調と視線。
「……」
「悩みがあるなら相談してほしいと思うのは変なことかな?」
「悩み?」
 彼女が何を言わんとしているのか、その意図が掴めない。
 鸚鵡返しに言葉を返すと、美樹は真剣な表情のままに言葉を続ける。
「染ヶ谷君には何か、よくないものが憑いてる」
 少し前の貞彦なら、非科学的だと一蹴しただろう。
 だが今の貞彦は知っている。非科学的なものは実在しているのだと。
 むしろ驚きだったのか、彼女が真面目な顔をしてそんなことを告げたという事実だ。
「言ってくれれば、いつでも相談に乗ったのに。乗るのに……何で、どうして言ってくれないの?」
 美樹は問う。その目尻に一瞬、透明な何かが見えたのが見間違えなのか、貞彦には判断がつかないし、つける必要もない。
 犯ってしまえと、貞彦の中の欲望が告げる。
 今の貞彦は強力といって過言ではないレベルの術士だ。たとえ武道に優れるとはいえ少女などどうとでもできる。
「一つ問おう」
 自分の中の声に頷きつつ、貞彦は言う。
「戦争中の国をイメージしろ。国と国の兵力の差は歴然、最早敗戦は免れないという状況だ」
 一歩進み、
「そんな状況で、劣勢国の技術者が兵器を発明する。それだけで戦況を大きく変えかねない、な」
 もう一歩、
「そして優勢国は勝敗を決しようと、総攻撃をかける。市街にはまだ一般市民が残っているにもかかわらず」
 更に一歩、
「そこで劣勢国は新兵器を投入し、総攻撃に参加した者は全滅する」
 足を止め、
「正義は、どれだ? 悪とは、どれだ?」
 問う。
 美しい少女えものは既に目前。あと二歩も進めばぶつかるほどの近さ。
「お前にとって悪いものに見えても、それが俺にとって悪いものとは限らない」
 踏み込み一歩。それだけで、充分に縮んだ彼我距離は無くなる。
 無意識が紡いだ身体強化の術式が発動する。
 右腕を振り上げ、下ろす。それだけの二工程。
「そっか」
 小さな、どこか哀しみを含んだ声が放たれ、
「……残念だよ」
 貞彦は慣性を感じた。
 自分の身体が飛んでいる、そう気付いたのはそれから一瞬した後だ。
 屋上縁のフェンスに足裏からつき、体勢を立て直して床へと降りる。何が起きたのかを把握したのは更に一拍後のこと。
 投げられた。それも美樹が、一切の初動を見せずに、だ。
 腹部に衝撃。膝を入れられたのだと知覚するのには時間を要した。
 知覚が加速する。減速していくはずの世界の中で、しかし美樹は減速しなかった。
 迫る拳を、貞彦は右手で受ける。少女のものとは思えない重さの乗った拳を、なんとか受け止める。
 最早疑う余地はない。
 彼女は、千堂美樹は……
「術士か!」
 彼女が何かが憑いていると言ったときから、一切の予想がなかったわけではない。この現代日本において、そんな発言はどこぞの宗教勧誘くらいでしか聞きはしまい。
 紡ぐのは干渉力の弾丸。指向性を持たない『ただ干渉するだけの力』を集束し、収斂し、放つ。
 放たれた弾丸はしかし、美樹へと到達することなく消滅した。
 障壁だ。
 数瞬の動き、それだけで貞彦は、美樹が高いレベルに位置する術士であることを把握する。少なくとも彩乃と同等、あるいはそれ以上の。
「ッ……!」
 ラバー敷きの床を蹴り、貞彦は距離を開ける。
「……まさかお前が術士だったとはな。驚きだ」
 梨緒は一言としてそんなことを言ってはいなかった。
 だが、あの動きは一朝一夕の術士のそれではないと、貞彦から繋がる記憶が告げる。
「最初は、勘違いかと思った。そうであればいいって、そう思った」
 真っ直ぐに貞彦を見据えたまま、美樹は続ける。
「でも違った」
 首を振り、落胆の声で美樹は言う。
「もしかしたら、無自覚なのかと思った」
 だけど、と溜息を吐き、
「違った」
 そう言って、美樹は貞彦に縋るような視線を向ける。
「ねぇ、染ヶ谷君。君は誰かに……」
 いや、と貞彦は首を振る。
「自分の意思で動いている。誰の指図もなく、誰に操られるでもなく、俺自身の意思で」
「そっか……」
 美樹は俯き、
「信じてた、なんて言葉を言えるほど、私は君を知らない。だから多分、私は信じたかっただけなんだね。そうだったら良いって、現実から目を背けていただけなんだよね」
 美樹の独白に貞彦は一つの疑問をぶつける。
「いつ、いや……何故気付いた?」
「君も、皐月もどこか変だった。胸の中がざわつくような、嫌な感じがした」
 貞彦は黙って、美樹の推理に耳を傾ける。
「そうしたら今度は梨緒までおかしくなった。ずっと一緒にいるんだもん、声だけでも変だってわかる」
 意を決したように、美樹は続ける。 
「皐月と梨緒が変だったのには何か関係があるかもしれない、そう思っていたら、今日は皐月と一緒に登校してきたよね。今まで、あんな露骨に避けてきたのに」
 気付かれていたのか、と貞彦は驚く。
「だから念のため、君を観察していたら気付いたの。そのいびつな干渉力に」
 普通、干渉力は術式を使わない限り他者に感知されることはない。正確には術士ではない人間であっても、微弱な干渉力は常に放っているために判断が付かない。
「君からは、干渉力を感じなかった。それは人として、生物としてありえない状態だよ」
 術士の目を誤魔化そうと、干渉力を悟らせないようにしていたのが完全に裏目に出ていた。
 今更関係ないとは思いつつも、そのことを告げなかったウズメや彩乃に文句を言いたくなる。
「だから、確認した」
「その結果が現状、というわけか」
 貞彦は笑う。
「勘に頼りすぎたお粗末な推理だ」
 しかし、と貞彦は言葉を足す。
「良い勘をしてるな」
 美樹の右手に収斂する干渉力。それらは余剰干渉力を光として放ち、ナニカの形を形成していく。
 棒、否、刀だ。
 彼女自身の身の丈を超えるほどの長刀をしかし、美樹は重さなど感じないと言わんばかりに手にし、構えた。
「君が何をしたのかは聞かない。でも、認めるよ、現実を。その上で染ヶ谷君、私は君の、目を覚まさせる」
 一言一言を、噛み締めるように美樹は宣言する。
「友達だからね」
 どこか自嘲するように、美樹は笑った。


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