第弐拾話『幸福』


「さて、と」
 すやすやと寝息を立てる三人を見て、ウズメは息を吐く。
 梨緒と彩乃については良い。問題は霞の方だ。詳しい状況こそ聞いてはいないものの、意思を無視して拉致してきたのは間違いない。
 目を覚ました時に面倒だと思い、ウズメは術式を展開する。発動するのはいままでも、そしてここ数日でも幾度となく行使した疑似的な生命の形成術式だ。生物という存在の定義は術式の存在を踏まえて考えると『精神の有無』という一点に収束する。この術式は、術式によって形成した物質に精神の代替となるものを加えたりすることで疑似生命ゴーレムを作り出す。
 生み出された歪な触手塊は、その一本一本がウズメの腕よりも太い。テラテラとした光沢に包まれたそれらが、畳に横たわって寝息を立てる霞の全身を掴み、拘束した。
「ん、ぅん……」
 小さな呻き声が霞の口から漏れたものの、目を覚ましたというわけではないらしく瞳は閉じられたままだ。
 ウズメはそのまま二つ目の術式を展開する。これもまた、彼女が幾度となく用いてきた彼女の十八番というべき術式。精神と肉体の両面に作用する淫気とでも表現すべき空気が周囲へと広がっていく。鼻孔をくすぐるのは甘い香りだ。
 十分ほどが経過しただろうか、それだけあれば耐性の無い人間に淫気がまわるのには十分過ぎるほどの時間だ。
 頃合いかと思って霞を起こそうとウズメが立ち上がると、それに反応したかのように霞が目を開けた。
「……ん?」
 首をかしげ、霞は周囲を見回す。しばらくしてようやく、その身体を拘束する極太の触手に霞の視線が向かった。叫び声を上げられてはたまらないと、ウズメは結界を形成する。しかし、ウズメの予想とは裏腹に霞はそこで叫び声を上げない。ただ嫌悪感を露わに、端正と表現して差し支えのない顔を歪めた。
「キモい」
 その口調に驚きが僅かほども含まれていないにウズメは気付いた。嫌な予感が思考を巡るが、それに対して対策を立てるだけの時間はなかった。
「うぁ〜ぁあ」
 霞が大きな欠伸とともに身体を伸ばす。浮いていたはずの両足はしっかりと畳を踏み、まさに起きがけと言わんばかりに首の関節を鳴らしている。
 彼女を拘束していた触手は、まるでハムか何かのようにブツ切りになって床にその残骸を散らしていた。
 その光景が意味するところは一つ。彼女は術士ということだ。ある意味で予想通りであったことに、ウズメは小さくため息。
「君は初めて見るけど、梨緒の関係者? あと、染ヶ谷の」
「そうよ」
 物怖じのない霞の問いにウズメは頷く。
「サダヒコの作る欲望の箱庭。それを形作る一人としてアナタも選ばれたのよ」
 ふふ、と笑みを漏らし、
「私は悦楽の欠片の第三片、天野細女。安心していいよ、蒼海霞ちゃん。私がゆっくりと淫獄に堕としてあげるから」
 宣言した。
「そっか。安心した」
「安心?」
 奇妙なほどに軽い口調で告げ、霞は笑った。思いがけない言葉にウズメが眉を潜める。
 安心しろと口では言ったものの、嫌悪を抱かれるならばともかくとして、安心感を抱かれるとは露ほども想像しなかったからだ。
「黒幕が君でよかった」
 ウズメの思考に浮かぶのは疑問。
 欠片という存在は一部を除いて高位の術士と決まっている。そんなものを敵に回しておいて、何故よかったと言うことができるのか。
 この明らかに不利な状況においても動じないその胆力と触手を瞬断するほどの実力を併せ持つ彼女が、欠片という存在の脅威を知らないはずもない。
 そしてウズメは、自分の行動が大衆から見て少なくとも善行ではないことを理解していた。だからこそ安堵という感想を理解できない。
「さっき、梨緒は幸せそうだったよ」
 朗らかとも言える表情で霞は言った。
「悦楽の欠片の真骨頂は精神への干渉よ。彼女の表情も、そして感情も、それによるものだとは考えないの?」
 事実ではない言葉をウズメは紡ぐが、霞は首を横に振る。
「もし仮に、そんなものを使ったとしてもそれはきっとキッカケに過ぎないんじゃない? ただ操られているだけの存在にはあんな幸せそうな顔はできないよ」
 霞は言い切る。その表情には確信めいたものがあった。
 実際には操っただけの存在に今朝がたの梨緒を完全に再現させることもできる。だが、ウズメは霞の言葉に納得していた。
 術士であれば、あながち無視することのできない本来であれば知覚することのできない、どこで知覚しているのかわからない感覚というものがある。いわゆる五感以外の、第六感以降の感覚であるが、霞がそれを含めて意味で言っているということをウズメは理解する。
「悦楽の欠片が関わってるってことは……まぁ、何が起きたのかわかるよ。でも一時の不幸なんて普通に生きていたって起きること。今あの子が幸せなら、私がそこに口出しすることはできないと思うんだ」
 ウズメは純粋に驚く。今まで、幾度となく人を貶め、操り、栄えさせた彼女も、そういった意味でその行動を肯定されたのは初めてだからだ。
 うぅん、と。ウズメは口に出すことなく思う。違うと。皐月もまた同じようにウズメを肯定した。
「もし、梨緒や美樹を不幸にするようなことがあれば私は君たちを裁く。私の意思で、私の倫理で、私の法で、私の判断でね」
 似ているな、と思い、ウズメは口の両端を上げる。
「そんなことできると思うの? 私も腐っても欠片なんだけど」
「私にできるかどうかって聞かれたら……まぁ無理だよね。でもその時はその時。いよいよ困ったら神頼みでもするよ」
 冗談ではなく、真剣な口調で霞は告げる。
「あぁ、染ヶ谷に伝言。さっきの手刀だけど、点数をつけるなら三十点くらい。まだまだ赤点」
 苦笑。
「私の知り合いの優曇華うどんげって奴の信条なんだけど、私もその意見には肯定派でね」
 後ろを振り返り、
「逃げるが勝ち」
 言うや否や、窓を割って外へと飛び出した。
 ウズメはただ笑って、彼女が逃げ去った方角の空を見上げる。
「あれ?」
 そして気付く。
「彼女が術士ってことはその従姉も……」
 畳の上ですやすやと眠る梨緒を見やり、
「マズい、かな?」
 呟くウズメの言葉は、正鵠を射ていた。





 美樹が飛び出し、貞彦はそれに応じた。
 彼我距離の消失に必要な時間は一瞬。振り上げられ、そしてすぐさま振り下ろされる刃を障壁を展開することで防ぐ。防ぎきったと思った瞬間、再びの衝撃。
 どういうことか、と貞彦は眉を潜め、すぐに答えを導き出した。
 今の一撃は確実に障壁で防いでいた。その時点で刃と障壁との間に距離はない。その状態から更に衝撃ということは彼女が何らかの術式を用いていたということだ。
 返しの術式を放とうとするも、既に美樹は長刀を構え終えている。
「ん?」
 夕闇に染まる空に、不可思議な煌めきを貞彦は確認する。
 迫る美樹の刃を貞彦はすれすれで避ける。見切り、ぎりぎりで回避したわけではない。それが反応の限界だったというだけだ。当たれば致命傷とはならないまでも重傷程度は覚悟しなければならない一撃だ。美樹が本気であると確認し、貞彦は笑みを浮かべ、そして――吹き飛んだ。
 そこで貞彦は悟る。先程の二重の衝撃の意味を、浮遊する煌めきの正体を、そして美樹の術式を。
 爆発だ。
 彩乃が水流の術式を得意とするように術士には得意不得意が存在し、いわば必殺技ともいうべき特殊な術式を用いることができる。美樹の術式は爆発の術式なのだと貞彦は判断する。
 そう考えれば先程の二重の衝撃は刃の衝突による衝撃に次いで爆風による衝撃が生まれたのだと説明がつく。浮遊する煌めきは爆発の媒体だろう。科学的な物質で言えば粉塵爆発に相当することを、美樹は術式生成物によって生じている。
 横薙ぎの一閃が橙色の粒子をまとって貞彦を掠める。命中はしていない。しかし次の瞬間貞彦の感覚は衝撃を得る。
「ッ……」
 この戦闘において、ぎりぎりの回避というものは意味を成さない。それは皮膚を焼き、脳に衝撃を与えるだけの無意味な行為。
 上手い、と。貞彦は思う。美樹は強い。少なくとも彩乃よりも上の実力の持ち主であることは間違いない。
 貞彦は術士を知らない。それゆえに術士の平均的な能力というものがわからない。だが、術士の名家としての誇りを持っていた彩乃が弱いとは思っていなかい。であれば、美樹と彩乃の間にあるこの差は何なのか。
『あ〜、あ〜、聞こえる? サダヒコ』
 唐突に、思考に割りこんでくる音でない声。貞彦は以前にこれと同じものを聞いたことがある。
『ウズメか!』
 飛んでくるしなやかな脚を障壁で防御しつつ、貞彦は意思を飛ばし返す。
『そうそう。でさぁサダヒコ。蒼海霞のことなんだけどね』
『今は取り込み中だ!』
 意識を眼前の相手へと集中させるも、すぐにウズメからの反応が返ってくる。
『まぁそう言わずに聞いてよ。重要事』
『用件は? さっさと言え』
 頷いたような気配の後に、ウズメの答えが飛んでくる。
 振り下ろされる刃は干渉力の弾丸で弾こうとした瞬間、長刀の峰で爆発が発生、剣速が上昇する。何とか迎撃に成功するものの、あと僅かに遅ければ防ぎきれていなかった。
 冷や汗をかきつつ、ウズメの声を待つ。
『蒼海霞に逃げられた。彼女術士でね。もしかしたらって思って梨緒を起こして聞いてみたら案の定、千堂の家系は術士の家系だったわ。それも結構ヤバめの』
『何だと?』
 ヤバめというのはどういう意味だ、と問う前に、ウズメからの回答が続く。
『千堂家……というか母方の寒凪家っていうのが相当高位の術士の家系。しかも蒼海霞は宮並の出らしくてね。それで、千堂美樹も一時期、彼女に師事していたことがあったらしくて』
『成程な、得心いった』
『得心って、まさか……』
『そのまさか。目下、美樹と戦闘中だ』
 理解する。彼女の実力の理由は実戦経験であると。宮並という街が東日本における術士のメッカであるということは既に聞き知っている。そこの出身である霞はその実力も高いものだろう。そんな彼女に師事していれば、術士がほとんどいないこの街において驕っていた咲岡家を上回ることはそう難しいことではないのかもしれない。そう貞彦は判断した。
 無論、それだけなはずもない。努力に才能、そして運。様々な要素が絡み合って眼前の強敵が形作られているのだと貞彦は思う。
 だからこそ。貞彦は嗤う。
 これはゲーム。己が望む箱庭を作り上げるというゲームだ。
 ならば彼女は最高の獲物だ。この最高の獲物を屈服させた時、自分はどれだけの達成感を、快感を得ることができるのか。
 想像するだけで笑みが浮かぶ。
「こっちからも行くぞ」
 距離を詰める。懐に潜り込んでしまいさえすれば彼女の得物である長刀は振るえない。そう判断しての踏み込み。
 だが、美樹は距離を開けはしない。無意味に刃を振るおうとすることもない。
 彼女が起こした行動は一つ。
 爆発だ。
 大気が爆ぜ、貞彦の身体は後ろへと吹き飛ばされた。
「くっ……その爆発、どこにでも生み出せるということか」
 彼女が粉塵を周囲にまとっていた理由を理解する。あれは攻撃を加速し、二重の攻撃を加え、回避した相手を追撃し、更には彼女を守る鎧の役割も果たすというわけだ。
「厄介な術式だ」
 応用も効く強力な術式である。
 問題は術式の系統よりもむしろ、それを自在に操り、体術もこなす美樹の習熟度の高さではあるが。
 どのように攻めるか、そう思案しながら牽制の干渉力弾を放ち続ける貞彦の耳に金属の軋む音が入ってくる。
 屋上のドアが開き、人影が現れ、驚いた様子の表情を見せる。現れた人影は、一瞬で自分のとるべき行動を選択したらしい。
 近付くだけでも危険な美樹へと駆け寄っていく。
 貞彦は術式を紡ぐことで、美樹の意識を自分へと集中させつつ距離をとる。
 恐らくは美樹がまとう粉塵の存在に気付いていないのだろうが、もし知っていたとしても彼女は同じ行動をとるだろうと貞彦は確信していた。
 その彼女が、後ろから美樹を羽交い締めにする。
 気配を察知する能力には優れないのか、あるいは単純に想定外だったのか、美樹は驚いた様子で首だけ振り返り、さらなる驚きを表現した。
「皐月……!」
 親友を、それも術士ではない人間相手に爆発を使うことはできないのだろう。それどころか、彼女の実力を持ってすればそんなものを用いなくとも純粋な身体能力だけで皐月を払いのけることくらいは可能なはずだろうが、美樹はそうしなかった。
 皐月と視線が交差する。親友を貶める行為にしかし、彼女の視線に迷いはない。
 貞彦は頷き、術式を放つ。
 干渉力の塊が、美樹の意識を奪った。


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