第弐拾弐話『幻影』
「……ふぅ」
淫臭の香る密室の中で、貞彦は溜息を吐き出す。
下げた視線を上げる。そこにあるのは磔刑の少女の姿。
貞彦が美樹を捉え、その調教をはじめてから三日が経過した。
危惧していた寒凪家や千堂家の介入もない。それどころか梨緒の連絡だけで三日目となる外泊がごく普通に認められてすらもいる。
万事は順調、のはずだった。
だが、その状況は順調に見えてその実、一つの不確定要素によって大きく崩された結果だった。
予想外の不確定要素、それは美樹の忍耐力だ。
本来ならば翌日、遅くとも翌々日には陥落していてもおかしくない。否、正確には陥落するか、あるいは発狂でもしていなければおかしいほどだ。
だが当の美樹は、
「ぅ、ん……よく寝た」
実妹に寄生する存在の子機である触手に身の自由を奪われ、梨緒に彩乃、ウズメと貞彦、皐月と全員が様々な手を尽くしたが一向に陥落する様子がない。
彼女は不感症というわけではない。そもそも、この空間には不感症の人間だろうと瞬時に気をやってしまってもおかしくないほどの淫気が充溢しているのだ。にも拘らず、美樹は堕ちない。
どれだけの快楽を与え、そしてどれだけそれを止めたところで、彼女の口から屈服の言葉が出ることはなかった。
美樹が話すのは他愛のない、まるで、学校で話しているかのように気軽な話だけだ。
異常な状況に、しかし異常ではなく対応する美樹はだからこそ異様。
業を煮やした貞彦は、次の一手に悩んでいた。
「さて、どうしたものか……」
美樹には聞こえないような、ごくごく小さな声で一人ごちる。
全く手が思いつかないわけではない。
密室ではなく、もっと不特定多数の人間の前で陵辱する、あるいは不特定多数の人間に陵辱させる。そういった手もある。彩乃の時にやったものと近い。
だが、貞彦の思考はそれを否定する。あるいは、独占欲か。それは自身でも判別のつかない感情。
加えて理由はもう一つ。そんな凡百の手で、目の前の少女を本当に堕落させることができるのかという疑念。微かに浮かび、すぐさま無理だと否定される。
「ひっくん」
思考の最中、控えめな声が掛けられる。
確認するまでもない声の主へと振りかえり、その要件を促す。
皐月の手招きに従って部屋を出た貞彦は、どこか楽しげな皐月の表情に何が起こるのかと少々の警戒すらも感じる。
「何だ?」
「うん、なんか美樹ちゃんのことうまくいってないみたいだから」
そんなことはわかっている、と言おうとするが、
「一つのことに集中するのはいいと思うけど、そうやって根を詰めちゃうのはひっくんの悪い癖だよ。たまには気分転換に外に遊びに行こうよ」
「遊びに、か……」
それも悪くない、と貞彦は思う。
別に期限があるというわけじゃない。あまり長引けば美樹の両親も流石に不審がるだろうが、少しくらいならば梨緒の誤魔化しでとうにかなる。
あるいは、美樹は家に帰しても大丈夫だろうとすら貞彦は感じていた。恐らく、否、間違いなく、彼女は他言しない。その上で、定めたルールで勝とうとしてくることだろう。
それに何より、皐月の言うとおり、根を詰めても煮詰まるだけだ。
「いいじゃない。楽しそう。私も行くー!」
どこから耳聡く聞きつけたのか、先程までは姿の見えなかったウズメがやってきて参加の表明をする。
「私もご一緒してよろしいでしょうか?」
「あ、私も行きたいです」
彩乃も梨緒もそれぞれに声を上げ、貞彦は溜息を吐く。
家を空にするのはマズイか、とも一瞬は思うものの、首を振って振りはらう。
現在の立場からしてそう考えるのもなかなかに奇妙なことではあるが、美樹は信用の出来る相手だ。たとえ拘束を解いたところで、逃げるなと言えば逃げないだろう。
「全く……」
こんな状況で、何故獲物である美樹を信用するのか、と貞彦は自嘲の笑みを零す。
「行くのは良いが、一体どこに行くというんだ? 娯楽施設などめっきり行ってはいないからな」
「特別なことをする必要はないよ。息抜きなんだから、ね?」
「……そういうものか」
「そういうもの」
*
「お前の言う通り、街に出てはみたが……どうしろと?」
「まぁまぁ、特に何にも考えずに歩こ?」
「あぁ」
言われたとおりに、思考を置き去りにしてただ歩く。
皐月や梨緒がウィンドウショッピングをするのに付き合ったり。
ウズメがどこと構わずにはしゃぎまくるのを他人のフリをして過ごしたり。
彩乃が意外にもペットショップの前で物欲しそうに犬と見つめ合うのを笑ったり。
それは本当に他愛のないことで。
あの頃と同じ。貞彦が求めていたもので。
鈍痛。
「またか……」
過去を思い出そうとする、ただそれだけでぶり返す頭痛。
過去の幻影だ。
記憶の中で未だなお輝き続けるあの日々が、ソレに終わりを告げたあの出来事が、貞彦を抉る。
首を振り、痛みを掃う。
「ぁ……」
一通り見て回り、帰ろうと公園に差し掛かった時だ。
幽霊でも見たかのような声を上げたのは皐月だ。
何かあったのか、と思いつつもどうせ大したことではないだろうと貞彦は苦笑。
「どしたのサツキ?」
三人が皐月の驚愕の先に意識を向けるが、彼女たちの表情に驚きはない。
やはり大したものではなかったか、そう思って一歩遅れて視線を向ける。
「ッ!」
思考に浮かんだのは怒りの感情。
視線の先にあったのは一人の女性の姿だ。
「尚美ッ、テメェ!」
朝倉尚美。
沸々と、感情が煮えたぎる。急激に沸騰した怒りが爆発する。
意識が沈む。深く、深く。
昔の、そう、昔の話だ。
深く沈み込んだ意識の中で貞彦は回顧する。
幸福の日々を。
忌わしき過去を。
自分の中から声がある。語りかけてくる。自身の声で。
『恨んでいるのだろう?』
そうだ、と貞彦は答える。
『許せないんだろう?』
そうだ、と再び貞彦は答える。
『ならば』
声が言い、貞彦は問う。
ならば、なんだというのか、と。
『復讐すればいい』
復讐?
『そう、復讐だ。考えたことがないとは言わせない』
考えたことがないわけではない。だが、それを実行に移そうとは考えたことはない。
彼女は仇でありしかし、姉のような存在でもあるからだ。
本当に彼女が仇なのか、それ自体に貞彦は確信を持てない。
『違うな』
違う、だと?
『そう、違う。お前は知っている。確信している。ただ、信じたくないだけだ』
そうかもしれない。だが、だからどうした?
『気付かないフリをするのはやめろ。俺はお前だ。お前の心は全て分かっている』
言葉は続く。
『忘れようとしたのだろう。今のままで充分だからと』
貞彦の内心を抉るように、的確に告げる。
『それは逃避だ。そんなんじゃあ面白くない。満足するな、渇望しろ、ありとあらゆるものを』
お前は、違う。
『何だと?』
お前は、俺じゃない。そう貞彦は告げる。
貞彦は全てなど求めてはいない。
求めるのは小さな幸せ。管理のできる、箱庭程度の幸せ。
『ならば俺は何だと言う?』
悦楽の、欠片。
そう、悦楽の欠片だ。
『面白いな。お前は実に面白い。それは正しい答えであり、そしてまた間違いでもある』
貞彦は理解する。
『俺は悦楽の欠片だが、同時にお前でもある』
復讐が俺の望みだと?
『そう。俺は知っている。お前であってお前ではない俺だからこそ言える』
どうしろと?
『陵辱せよ! 陵辱せよ! 陵辱せよ! 身体を、心を、その全てを穢し尽くせ!』
頭痛。
時間が止まったかのような無感覚の世界に、痛みという感覚が戻る。
『躊躇うな』
「ぁ」と。
苦悶の声は実際に漏れたのか、それともそう貞彦が思っただけか。
『躊躇うな』
しかし、と否定する。
同時に「ぁぁ」という苦悶の声。
『躊躇うな』
激痛。
まるで生きたままに骨から肉を削がれるような、想像を絶する痛みが全身に伝播する。
苦悶を超え、声にもならない絶叫が貞彦の中に無情に響く。
痛みが消え、次にやってきたのは感覚が失われる感覚という矛盾。
自身の身体の、その支配権が強奪されていくのを貞彦は感じ取る。
残るのは薄っすらとした、ぼんやりとした思考だけ。
意識の電源が落とされ、すぐさまに再始動。
おぼろげな思考は目の前の獲物をしかと捉える。
どうするか、という自問も、周囲に対する気遣いも、既にない。
結論はただ一つ。
術式が編まれていく。僅かな刹那に紡がれたとは思えない、高密度の干渉力。
「復讐だ」
貞彦は小さく呟き、眼前の獲物へと跳び込んだ。