第弐拾参話『暴走』
時間には二種類ある。
一つはクロノス時間。もう一つはカイロス時間。
前者は過去から未来へ、一定の方向と速度を保って流れる機械的な時間であり、後者は速度が不定で逆行や停止もする主観的な時間のことだ。
楽しい時間は短く、退屈な時間を長く感じるというのはカイロス時間のことである。
三年。
それは貞彦にとって、クロノス時間で考えれば短く、しかしカイロス時間では残酷なほどに長かった。
貞彦が二年の間、死という選択をとらなかったのは何故だろうか。
一度も考えなかったなどということはない。幾度としてその結末を選択しようとはした。
だが実際に行動に移そうとしたのはただ一度、ウズメと出会ったあの時だけだ。
死が怖かったのか?
それは違う。だが、結局は同じだったのかもしれない。
貞彦は恐ろしかったのだ。全ての忘却が、意識の消滅が。
三年前、貞彦に何があったのか。
正確には、貞彦には何もなかったというべきかもしれない。
ただ、喪っただけだ。半身とも呼ぶべき存在を。
かつて、そう、三年前まで、貞彦には半身と言っても過言ではないほどに仲の良い親友がいた。
名を朝倉修司。
物心の付く前から、いたるところを共に駆け回り、笑いあい、共に泣いた。
それは特別なことではなかった。当たり前に毎日、毎日。
小学校に入学する少し前、二人は皐月と出会った。二人は皐月をの輪の仲に迎え入れ、しかし結局、一人増えただけでそれまでと同じように遊びまわっていた。
修司はとても頭の良い少年だった。学校の成績は世辞にも素晴らしいとは言えず、あくまで平均ラインに留まってはいたものの、その思考の回転速度には貞彦も皐月も舌を巻いたものだ。
悪戯のときには修司が案を練り、実行するときに決まって皐月がやり過ぎて、そのフォローに貞彦がまわっていた。いつものことで、今になって考えてみればあまりにもくだらないことばかりをしていたのに、それでもその輝きは強くはなれど弱まりはしない。
小学校に入っても、中学に上がっても尚、三人の関係は変わらなかった。クラスが離れようと関係はないのだ。
かけがえのない、という言葉がまさしく相応しい、お互いに大切な者同士の関係だった。
修司の姉、朝倉尚美とも貞彦たちは懇意にしていた。
一人っ子だった貞彦と皐月は、尚美のことを自分の姉のように慕っていたし、彼女も二人のことを弟や妹のように、あるいはそれ以上に大切に扱った。尚美が特待生として全寮制の高校へと入学した時は修司が平気な顔をしていたというのに貞彦と皐月の二人は号泣していた。
貞彦の仲で、今もなお輝きを放つそんな日々はしかし、唐突に終わりを告げた。
いつものように朝、起きて。いつも三人で登校していたのに、その日に限って修司は来なくて。
修司は決して病弱というわけではなかったが、それでも昔から不定期に身体を悪くして学校を休んでいた。無理をして登校してきた日など、意識がおぼつかないことすらもあったので貞彦や皐月がちゃんと休むようにとたしなめると「家に居るよりも学校のが楽しいだろ」と、笑って言っていたものだ。
前日もまた、随分と調子が悪そうにしていたので、また病欠かと思い二人で登校した。
珍しく、その日は授業を取りやめにして朝会をやることになっていた。だんまりと立ったまま時間が過ぎるのを待たなくてはならない朝会が嫌いだった貞彦はそれにうんざりしつつ、体育館へと向かった。その時の気持ちを、貞彦は今でも鮮明に覚えている。
今度は何があったのか、概要くらいは聞いてやろうと傲岸不遜な心情で耳を傾けていた貞彦は信じがたい、信じたくなどない音を耳にした。
『アサクラシュウジクンガジコデナクナリマシタ』
音の羅列は、貞彦に言葉として伝わらなかった。
その日の、そこまでに至る経緯をそれほどまでに鮮明に覚えているというのに、そこから先の貞彦の記憶は曖昧だ。
現実味など湧きはしなかった。また悪戯の一環かと、タチが悪いなとそう思いながら。
貞彦が修司の死を現実として受け止めたのは、皐月の涙を見たからだった。
嘘ではないのだと、冗談などではないのだと、あまりに残酷なそれが事実なのだと、皐月の涙が如実に語っていた。
貞彦は泣いた。皐月と一緒になって。丸々二日もの間、体中の水分を全て流してしまったのではないかと思えるほどに泣いた。
泣き切った貞彦は、しかし皐月とは違って塞ぎ込みはしなかった。
まず貞彦は学校へと向かった。授業を受けるためではない。修司の、自らの半身の死の全てを知るために。
三人が本当に仲が良かったことを知っていた当時の修司の担任は搬送された先の病院を教えてくれた。
もちろん、中学生が病院に死の状況などを軽々と教えてもらえるわけがない。だがそれでも、貞彦はひたすらに病院に通い続けた。
毎日毎日、欠かすことなく通っていた貞彦は一人の医師に声を掛けられた。その医師は表面上は「個人情報だから」であるとか「ご家族以外には」などと言ってはいたものの、貞彦の内心を汲み取ってくれたらしく、貞彦の質問の一つ一つに答えた。
その結果にわかったのは決して幸福ではない、あるいは知るべきではなかったかもしれない真実だった。
修司は即死だったということ。
歩道橋の階段から誤って転落し、頭部を強打したことが死因であるということ。
そして、その身体には階段からの落下とはどう考えても結びつかない、常習的な傷跡が大量に残されていたということ。
それ以上のことを、医師は言わなかった。立場上、無責任な予想や言葉を告げることはできなかったのだろう。それ以前に、そんな事実を伝えてしまっている時点で職業倫理上大いに問題があるのだ。
貞彦は医師に礼を告げ、病院を出た。医師は断言をしなかったが、修司の傷の原因は考えるまでもなかった。
DV。
家庭内暴力だ。学校、それどころか家の中以外のほとんどの場所で、修司は貞彦たちと行動を共にしていた。他に考えようがない。
そう思った貞彦は、更なる調査を続けた。調査と言っても、一人の中学生ができることなど聞いて回る程度しかない。だがそれでも、貞彦が求めていた、あるいは望んではいなかった答えは充分に得ることができた。
修司の悲鳴や打撃音、両親の怒声や罵声を周辺住民は確かに聞いていたのだ。
家庭内暴力は、頭脳明晰で優秀だった尚美に比べ、修司の勉強の出来が悪かったことが理由であることも推測できた。
浮かんだ感情は憎悪、そして憤怒。
修司はそれを、自らの弱みを決して貞彦たちに見せなかった。心配を掛けまいとしていたのだろう。だが、修司は確かにサインを出していたのだ。意識を朦朧とさせながらも家ではなく学校に居ることを選んだのもそうだろう。ちゃんと休めと言われてからは家に居れば虐待される、それがわかっていながらも、貞彦と皐月に心配を掛けまいと学校を休んだ。そもそも頻繁な休み自体、虐待による不調が原因だったのだろう。
どれだけ後悔したところで、修司は戻ってこない。
虐待の事実は当然のことながら警察にも知れることとなり、修司の両親は処罰を受けたものの、直接虐待死させたわけではなかったためにそれほど重い罪に問われることはなかった。
とはいえ、虐待の事実があったことが公になり、住みづらくなったのだろう、朝倉家は家を引き払い、どこかへ引っ越してしまった。近隣住民の誰に聞いたところでその行き先を知る者はいなかった。
貞彦の怒りの矛先は四人へと向いていた。
まず、修司の両親。
そして、修司が虐待される原因となった尚美。だが、それだけで尚美を恨むことはなかっただろう。問題はそれを見て見ぬ振りをしていたことだ。全寮制の高校に通っていたとはいえ、尚美は毎週末には実家へと戻っていた。自分は安全な位置に居て、弟が虐待されるという所業を止めなかった。その事実に貞彦は怒りを抱いていた。
修司の両親への怒りなど当然のことだ。だがだからこそ、それを止められる立場にいたはずなのに止めなかった尚美への怒りばかりが肥大した。
最後の一つは、貞彦自身への怒りだ。
半身が、無意識のうちに放っていたSOSのメッセージに気付くことができず、救うことのできなかった自分の無力への怒り。
全てを皐月に話した後、貞彦は皐月と距離を置くようになった。
一緒に居れば、あの頃の、輝かしい日々を忘れずにはいられないからだ。
あの頃は楽しかったと、そう言って回顧するには、その記憶はあまりにも輝かしすぎた。
貞彦が進学したのは修司との約束だったからだ。貞彦と、皐月と、そして修司。三人で必ず一緒にあの学校に入ろう、という。
その約束を忘れていなかったのは貞彦だけではなかった。皐月もまた、修司との守られることのない約束を守るために同じ学校へと進学したのだ。
それから三年弱。
今また、貞彦の目の前にいるその女性は、朝倉尚美。
修司の、半身の仇。
*
咄嗟に、ウズメは術式を展開する。
それは論理的な思考に基づいたものなどではなく、あくまで「そうすべきだと思ったから」という感覚的なものだった。
だがそれは、結果的に功を奏した。
展開したのは結界。認識をズラし、他者に気付かれなくなる空間。
貞彦の中で紡がれていく大きな干渉力にウズメは危機感を覚える。
今まで、貞彦にはどちらかといえば冷静なイメージがあった。しかし、今目の前で術式を紡ぐ貞彦には冷静さの欠片も存在しない。
嫌な予感だ、とウズメは思う。
止めた方が良い、とも。
理屈ではないのだ。
そう考えている内に、貞彦と女性の間にあった距離は消滅していた。
*
「尚美、お姉ちゃん……」
皐月は、驚きと共に声を絞り出す。
もう二度と会うことはないかと思っていた、かつて姉のように慕った女性へと向けて。
憤怒の形相を浮かべた貞彦が、常識を無視した速さで尚美へと迫る。
そう思った時にはもう、貞彦は尚美の首を掴んで持ち上げていた。
嫌だ。
皐月は思う。
このままじゃ、ダメだと。
*
貞彦が飛び出したのを彩乃は見ていた。
初動を感じ取ることもできない、見事な距離詰め。縮地と呼んで差し支えのない動きに術士としての驚きを感じながらも、貞彦の所有物としての彩乃は貞彦を見つめる。
心が、ざわつく。
自身の隣に立つ皐月を視界の端に捉える。
彼女は知っている。自分の知らない主人の過去を。そして、眼前の女性はそれに関わっているのだと直感する。
貞彦は女性に対して明確な怒りの、憎しみを意思を持っている。
持ち上げられた女性は、このままであれば首を捩り折られるかどうかして殺されるか、あるいは死など生ぬるいほどの責め苦を受けることになるだろう。
湧いてくるのは、強迫観念にも似た衝動。貞彦を止めろ、と。
それを抑えるカードは主人への服従の意思。
だが。その抑えを持ってしてなお、彼を止めるべきだと、彩乃の勘は告げていた。
*
梨緒は見た。一陣の風のように飛び出し、女性の首を掴み上げる。
直接にその怒りを、憎悪を、殺意を向けられているわけではないというのに、梨緒は恐怖すらも感じ取る。
失禁さえしつつもしかし、目は逸らさない。
女性は貞彦を見ると、あるいは、それが貞彦であると確認したともとれる視線の動きで、安堵したような表情で目を閉じた。
何で? 梨緒は思う。
これだけの意思を向けられて、どうしてそんな安らかな表情を浮かべられるのか、と。
間違っているのだ。何かが間違ってる。
梨緒はそう結論する。
貞彦の向ける意思は何かが間違っていて、止めなければ彼がきっと後悔するであろうと。
*
ウズメも、皐月も、彩乃も、梨緒も。
四人共が動くことができなかった。
嫌な予感がすると、このままじゃいけないとそう思いつつも、貞彦の物質的な質量すら持っているとさえ思えるほどの殺気に。
貞彦は女性を乱雑に放り投げると、その右手に術式によって組み上げた杭を打ち付けた。
流石に、その行動には全員が声を失った。
だが、女性は苦悶に顔を歪ませながらも、悲鳴一つ上げずに耐えていた。
何故耐えるのか、ウズメにはわからない。今はそんなこと、関係はない。
次は左手。
そして右足。
左足まで打ち付けて、今度は彼女の身体を持って無理矢理に持ち上げる。地面に打ち付けられた四肢が引っ張られるが、そんなものは気にも留めていない。
想像するだけでも恐ろしいほどの痛みが女性を襲っているであろうはずなのに、女性は声一つ上げない。
まるで懺悔するかのように、ただ瞳を閉じて耐えている。
紡ぎだされたのは触手状の疑似生命だ。乱暴に、力づくに、彼女のスカートの下の下着を破き去る。梨緒に寄生しているそれよりも遥かに凶悪で、グロテスクな姿をしたソレを、貞彦は躊躇いなく女性の秘部へと押し込む。歓喜に震えるように、触手は女性の中へと潜っていく。女性の秘部からは鮮血が散る。処女だったのか、否、もしそうでなくともこうなるであろう。
これは既に悦楽を得るための陵辱ではない。
残虐性のみを孕んだ、ウズメが望むそれとは異なるものだ。
だがそれでも、動けない。そこに、
「天ちゃん! アヤちゃん!」
皐月が叫ぶ。
「ひっくんを、止めて!」
その言葉を着火の合図とするかのように、ウズメと彩乃は飛び出した。
それ以上の言葉は不要。貞彦を止める、そのただ一つの目的は、この場に居る全員が共有していた。
流麗と表現しても余りある、美しく無駄のない動きで彩乃は距離を縮める。
「失礼します!」
告げて、彩乃が術式を繰り出す。彩乃の右手から伸びるようにして生まれた水の刃を、貞彦は軽くステップを踏むことで回避。反撃の一発をウズメが受け止め、彩乃は体勢を立て直す。
「何の、つもりだ」
地獄の底から響く怨嗟のような声で、貞彦は問い掛ける。
「こっちこそ聞きたいわね、何のつもり? 唐突にそんなことされたら驚くわよ! それに、そんなことをするのはサダヒコらしくない!」
最初こそ平静を保っていたものの、戸惑いを隠せない声でウズメが問う。
「ひっくんは」
答えは貞彦からではなく、皐月から。
「復讐しようとしてるの。しゅうくんの復讐を」
「そう、復讐だ。邪魔をするな」
「詳しく……聞いてる暇はないわね。私が求めているものは、そんなものじゃないの。アヤノ、行くわよ!」
「はい」
ウズメの呼びかけに彩乃が応え、
「ご主人様、失礼致します!」
二人が同時に跳躍する。
流石は欠片、彩乃のそれを遥かに上回る速度のウズメ。意識せずとも時間差となる二人は刹那の間もなく貞彦へと迫る。
衝撃。
まるで空気に叩かれたかのように、二人は弾き返される。
「嘘、でしょ……?」
ウズメは驚きを隠しもせずに声を漏らす。
貞彦の手の甲に刻んだ文様が、干渉力を蓄えその余剰干渉力が光となって輝いている。
貞彦はウズメがその力を貸し与えた者だ。その力はウズメの一部に過ぎないものであり、彼女を超えることなどありえないはずだ。
だが今、一瞬の交錯でウズメは察する。今の貞彦は欠片と同等以上だと。
理由はわからない。だが、それを喜ぶことができる状況などではないのは間違いない。
今度は干渉力を弾丸として放つ。しかしそれも容易く干渉力の壁に防がれる。
「邪魔をするな、と言っている」
放り出された女性の中で、暴虐の徒たる触手が不気味に蠢き、その腹を内側から不規則に持ち上げ続ける。
普通の人間が突然あんなことをされて無事でいられるわけがない。
ウズメは別に、知らない人間が殺されて動じるような博愛主義者ではない。
だが、この状況を黙って見ているわけにもいかないのもまた事実なのだ。
それは彼女が貞彦に何か関係するものであって、何らかの事情を抱えているからだ。
そして何より、皐月は言ったのだ、貞彦を止めて、と。
「……そうはいかないわね。相手をしてもらうわよ? この私、悦楽の無双が第二片、天野細女とね」
「微力ながら、私もお相手させて頂きます」
ウズメが構え、彩乃もその横で構えをとる。
「邪魔をするなと言っている」
怒りを噛み締めるように、貞彦は言葉を放つ。
「もし邪魔をするならば」
二人を見据え、
「殺す」
宣言する。
動く影。それは女性を助けようと駆けだした梨緒の影。
だが。
弾かれる。
まるでボールを投げたかのような勢いで、弾き飛ばされた梨緒は飛んでいく。
「邪魔をするな」
眉一つ動かさず、貞彦は冷徹に言い放つ。
「り、梨緒!」
「サツキ!」
駆け寄ろうとした皐月にウズメが鋭い言葉を飛ばす。
「離れてなさい。役に立ちたいなんて思わなくて良い。変に動かれても足手まといになるだけだから」
「梨緒さんは無事です。意識こそ失っていますが、彼女に寄生した触手が何らかの力場を働かせたようです。貴女は自分の安全を確保しなさい」
悔しげに、皐月は歯噛みする。
「行きなさい!」
「ッ!」
皐月にも、自分が足手まといになることはわかっているのだろう、一目散に走り出した。
それを確認すると、改めてウズメは貞彦へと意識を向ける。
「何度言わせるつもりだ。邪魔をするなと」
「何度言われてもそうはいかないわね。それにリオにあんなことをするなんてヒドいじゃない。アレ、触手が何もしなかったら死んでるわよ」
「知ったことか」
「なん……」
「言ったはずだ。俺の邪魔をするならば殺すと」
貞彦の眼も、言葉も、真剣そのものだ。
「……アヤノ。今のサダヒコは多分、サダヒコであってサダヒコじゃない。アイツの中の何かに操られてる」
「私も、そう思います。ご主人様は所有物をないがしろにするような方ではないはずです。少なくとも、私が忠誠を誓ったのは、そんな方ではありません」
「本気でやるわよ」
「はい」
彩乃の瞳にあるのは決意の意思。
「いいだろう」
その顔に笑みさえ浮かべ、
「殺してやる」
貞彦は言った。
瞬間、怒りと信念、一対二の干渉力がぶつかり合った。