第弐拾伍話『悪鬼』
「助けて」
息も絶え絶えに、貞彦の家に帰ってきた皐月は唐突に美樹へそう告げた。
冗談を言っているようには見えなかった。そして、それが深刻なことなのだということもすぐにわかった。
「あんなことを、しておいて、虫が良い話、だってことは、わかってる。でも、お願い……」
だから、美樹は頷いた。
皐月が自分の陵辱に加担していたのを忘れたわけではもちろんない。
しかし、そんなことは些事に過ぎない。
ゆえに、美樹は促す。
「話して」
「ひっくんを、助けて。お願い……止めてあげて」
今にも泣き出しそうな、か細い声。
その言葉に、是も非もなかった。
「場所は?」
「学校の近くの、公園……」
「わかった」
事情はわからない。
わかる必要もない。
ただ、自分は頼られたのだ。親友たる存在に、助けてほしいのだと。理由はそれだけで充分。
場所も、やるべきこともわかっているのだ。それだけわかっていれば、他に何が必要か。
美樹は自問し、改めて頷く。
「うん、わかった」
自らに掛かった拘束を、どうすべきかと身じろぎして、気付く。
今までも何度か抵抗を試みたにも拘らずびくともしなかった拘束触手が、草のツルかと思えるほどに容易にほどけた。
「ありがとう、美樹ちゃん」
「何言ってるの。私たち、親友じゃない。それに」
微笑み、
「染ヶ谷君も、私にとっては大切な友達だから」
数日ぶりの直立に、一瞬ふらつくもすぐに感覚を取り戻す。
「……行ってくるね」
告げて、美樹は駈け出した。
*
死。
カタチのないソレがしかし、明確なイメージとして近付いてきたのを美樹は感じていた。
赤黒い光球が迫ってくる。
それは先程までのモノとは見た目こそ変わらないものの、美樹はそれが必殺の一撃であることを理解していた。
あと一瞬の間も置くことなく、あの光球は美樹の、彩乃の、ウズメの命を奪うことだろう。
しかし、今の美樹に、それを避ける術もなければ防ぐ術も存在しなかった。
二人には来たばかりだから万全だというようなことを言ったが、そんなことはない。今の状態の二人よりも僅かにマシか、あるいはそれよりも悪い。貞彦らによって受けた陵辱の痕。術式によって鋭敏化した感覚によって衣擦れ一つでさえも思考を妨げるのに充分な快感となる。
そもそも、圧倒的な干渉力によって編まれた破滅の光球を万全の状態であればどうにかすることができたのかと問われたところで答えは否だ。
暴走する貞彦は真正の神格、悦楽の無双から常軌を逸したレベルでの干渉力を引き出している。
悦楽の欠片としての暴走、ということはその能力は、戦闘勘や技術の面で劣りはすれど、純粋な干渉力の量でいえばこの世界における究極、信楽のそれに匹敵するいうことだ。
そこから放たれた一撃を防ぐことは最早、同格以上の存在でなければ不可能だ。
不可避の死の予感が、美樹の全身を覆っていく。
だが、美樹も負けるわけにはいかない。
皐月は言ったのだ、貞彦のことを助けて欲しいと。そして美樹はそれに是と答えた。
ここで死ねば、貞彦を引き戻すことは出来ない。それは皐月との約束を破ることともなる。
そして何より思っていた。彼に、これ以上傷を増やしたくはない、と。
美樹は事情の説明のためにと、皐月から朝倉修司のことについて伝えられていた。
だからこそ、美樹は皐月と同じ感情を抱いて、貞彦と相対する。
「私は……」
美樹と貞彦との出会い、その初めの理由はなんでもないものだった。
高校に入学して最初にできた友達である皐月の想い人と、偶然席が隣になったから、皐月の助けになろうと彼に話しかけるようになった。
その後も何故だか席が近くになり、当初は全く反応のなかった貞彦からも話すようになっていった。
親友の恋を叶えようという気持ちから、どこか気持ちがずれていったのはいつのことだっただろうか。
その気持ちが親友に対するこの上ない裏切りだと理解して、美樹はその想いを捨てた。捨てることなどできないと知りつつも。
封じ込めた気持ちは、しかし逆に想いを募らせる結果となった。だがそれでも美樹はひたむきに皐月を応援し続けた。自分の本心が、彼女の恋の成就を願っているのか、それとも失敗を願っているのかわからなくなりながらも、ただひたむきに。
「私は……!」
その心は、親友を想うその心は、紛うことなく真っ直ぐで、それ故に、自分の貞彦に対する気持ちを表に出すことができなかった。
あるいは、否、恐らく間違いなく、皐月は美樹が貞彦のことを好きなのだと伝えれば、それを応援すると言っただろう。親友だからわかる。だが、それが原因で皐月が身を引くなどという結末も美樹は望んでいなかった。
だからこそ、負けることなど出来はしない。
この場における敗北は、美樹にとっても、皐月にとっても、貞彦にとっても、取り返しのつかないモノとなるから。
「絶対に、負けない!」
次の瞬間に朽ち果ててもいい、そう思うほどの気合で、美樹は我武者羅に術式を編んでいく。
全力で術式を編み続けながらも、術士としての美樹の本能が間に合わないと絶望的な判断を告げる。
だがそれでも、美樹は諦めない。限界まで、それどころかそれを超えて加速させた知覚が悲鳴を上げるのを無視して、更に知覚を加速。
プツン、と。
何かの糸が切れたかのような音が、聞こえたような気がした。
加速させていた知覚が最初はゆっくりと、そして急激に減速していき、元の速度へと戻る。
それどころか、組み上げていた術式が頭の中で崩壊していく。
限界を超えた思考が、自己防衛のために術式の組成を中断させたのだ。
そんな絶望的な状況になっても尚、美樹は諦めなかった。
右手の長刀を振りかぶり、斬り伏せる。そんなことが可能だとは思っていなかったが、それでも美樹は、右手を振りかぶろうとした。
瞬間、凄まじい衝撃が走る。
爆発でも起きたのかと思うほどの衝撃に、砂塵が舞い上がる。
来るだろうと思っていた死は訪れることなく数秒の時が流れる。
彩乃かウズメがどうにかしたのかと思って振り返ってみるも、その二人も驚いた様子で目を開閉させている。
一体何が起きたのかわからず、当事者にもかかわらずまるで傍観者のように、美樹は首をかしげた。
薄れていく砂塵の中にあったのは、一つの人影。
「あ……」
声を漏らしたのは、後ろで膝をついたウズメだった。
砂塵が止み、黒の長髪を風になびかせる少女は、呆れたように溜息を吐きながら、美樹たちへと振り返る。
黒の長髪と同色の瞳。そして整った顔立ちと、特徴だけを捉えるならばウズメと大差はないと言えるかもしれない。しかしその身に纏う気配は正反対と言っても過言ではなかった。
触れるだけで断たれるのではないかと思うほどの、抜き身の刀のような鋭い気配。
ウズメのそれが『艶』であるならば、目の前に立つ少女のそれは『凛』だ。
華美ではない。ただ、ヒトというカタチから一切の無駄を省いたような、ある種の機能美すらも少女からは感じ取れた。
「――――!」
最早、声にならない咆哮を上げながら、貞彦が術式を放つ。
莫大な干渉力が収束したそれは長さ数メートルの刃の形をとり、周囲を薙ぎ払おうと振り下ろされる。
しかし、それはその目的を十全に果たすことなく、静止した。
何が起こったのか、美樹には一瞬判断がつかなかった。目の前で確かに起こったことにもかかわらず、だ。
凛の少女は振り下ろされた破壊の刃を、まるで高い段にある本を取り出すかのような気軽な動作で受け止めていた。
そんなこと、ありえた話ではない。
美樹は家系を鼻に掛けるつもりもなかったが、それでも自分が相応の能力を持っている術士だという自己判断はあった。その自分と彩乃、そして曲がりなりにも欠片の一柱であるウズメ。その三人が総力を上げ、その上でいかにしても勝ち目がないと思った相手の一撃を、それも今までにないほどに強力に見える一撃を、少女は容易に受け止めた。
信じられた話ではない。
美樹の心には絶望的窮地を脱したという安堵感よりも、彼女は何者なのかという疑問と恐ろしさが勝っていた。
「全く。どうしてアンタはこう、面倒臭い状態にするの? 天」
凛の少女が言葉を吐き出す。
「今は……天野細女って名乗ってるよ」
疲労を隠すことなく、どこか安堵したようにウズメは告げる。
その表情には笑顔すらも浮かんでいた。まるで、これでもう安心だと言わんばかりに。
「アマノウズメ、日本神話における天岩戸伝説に登場する日本最古のストリッパー、ね。成程、そりゃアンタらしい」
そこまで言って、会話は途切れた。
無数の干渉力の塊が銃弾のような勢いで放たれたからだ。
サイズをだけを見るならば、先程までの光球よりも明らかに小さい。だが、その速度はそれまでの比ではないかった。
しかし、少女は焦ることなく、ただ左腕を前に突き出した。
その腕につけた青色の腕輪が輝く。輝きのままに腕輪は光となり、左手へと収束。光は次第に杖の形状をとり、その手に握られる。
「さて、と」
光杖は少女の呟きに応えるように、身に纏う光を剥がしていった。
その中から姿を現したのは刀。
一連の流れは美樹が術具を形成する際のそれに似ている。だが、それは似ているだけだ。
刀身は白にも、黒にも、虹色にも見える、あらゆる色彩を内包したような色彩。
無秩序を表すかのような、色にあらざる色に覆われた刃に峰は存在しない。
日本刀というものは西洋の直剣とは違い、斬れ味を優先するために強度で劣る。そのため、西洋剣のように両刃にしてしまえばすぐに折れてしまい、とてもマトモに使えるものではない。
しかし、それはあくまで常識の範囲内の話だ。
それが、常識外れの、異なる理の上でのものだとしたら?
両刃曲刀。
その言葉に、ようやく美樹は一つの名前に辿り着く。
術具のカタチは精神特異性によって決定される。両刃の曲刀などというふざけた形状を用いる者を、美樹はある例外を除いて他には知らない。
神刀一振。
寸分の違いもなく刃によって叩かれた術式弾は跡形もなく消滅、消失する。神刀の一撃を受けなかった術式弾は、誰に当たることもなく虚空に霧散。危険な弾道の物のみを的確に判断し、恐ろしいほどの反応速度で撃ち消したのだ。
彼女の動きはゆっくりとしていたように見えて、その実、掛かった時間は一瞬にも満たない。
「らせ、つ……」
驚愕のままに、美樹はその名を搾り出す。
放縦の無双の欠片《羅刹》、この世界において、信楽や蜉蝣と並んで最強と称される三柱の欠片の内の一つ。
その力は最早、疑いようもない。
「どうしてここに?」
「友達に頼まれてね。従妹達がピンチだから助けてやってくれとね」
疑問をぶつけたウズメに、凛の少女――羅刹は溜息を吐くようにしてそう言った。
「友情こそ最大の武器……って言うのはいいけど、体良く面倒事を投げられた以外の何物でもないよねこれ。まぁ、霞にはあとでたっぷりと奢ってもらうとして……まずはアレをどうにかしないとね」
不遜に笑みを浮かべ、羅刹は刃を貞彦へと向ける。
「選ばせたげる。私に殺されるのと、死なされるの、どっちがいい?」
貞彦に対する質問の形をとった死刑宣告に待ったを出したのはウズメだった。
「ちょ、羅刹、ちょっと待って」
「何なの。言っておくけどアンタからはまだ借り一つ返してもらってないんだからね」
「それはいつか返す。それよりお願い。サダヒコを殺さないで」
「要するに死なせろってこと?」
「違う。サダヒコは、私に、私達にとって大切な存在だから……だから……サダヒコを、助けて」
羅刹は僅かに考えるような仕草をして、そして微笑を浮かべた。
「アンタが一人に執着を見せるなんて珍しい。いいよ、今回は面白いものを見せてもらったってことでね」
「ありがと、羅刹」
「貸しは大きいよ」
「いずれ満額、足を揃えて返すわよ」
その言葉に羅刹は苦笑。
「……それを言うなら耳を揃えてだけどね」
そう言って、羅刹は消えた。少なくとも、美樹の目にはそう映った。
次の瞬間となるよりも早く、貞彦の体が音を裂く爆音と共に打ち上げられていなければ彼女の移動に気付きもしなかっただろう。
事態を呑み込めていない様子の貞彦が、ようやくそれを理解したであろう頃には、既にその動きのベクトルは上向きから下向きへと変更させられていた。
上、下、上、下、と、貞彦の体がバスケットボールのドリブルでもされているかのように上下に弾かれる。
美樹の知覚で認識できる限りで数十回、恐らく実際にはその数十倍の回数、貞彦を弾いた羅刹は、最後に一際強く、地面へと打ちつけた。
まるで漫画か何かのように地面に大穴を穿ち、貞彦は地面へとめり込んだ。
ただの人間であれば、それどころか一般の術士であればまず生きてはいないだろう。しかし、悦楽の無双の力を供給される貞彦は今や、一般の術士という域を超えている。
だがそれでもダメージは大きかったのか、苦しそうな様子で大穴の中から立ち上がる。
「……まぁ、それなりには頑丈ってことか」
強大な術式が、貞彦の中で組み上げられていく。
既に蚊帳の外となっている美樹でさえも感じ取ることができるほどの、絶大な干渉力。
そうなっても尚、羅刹は揺らがない。
組み上げられた術式が、純然たる破壊のカタチとして放たれる。
それに対して羅刹がとった行動は、至極単純なものだった。
刃を右手に持ち替え、左足を引き、腕を引き絞る。
左の拳を握り込み、突き出す。
乾坤一擲などというほどのものではない。ほんの遊びだと言わんばかりに。
しかしその一撃は放たれた破壊のカタチの具現をいとも容易く打ち破る。
最早、これは戦いと呼べるものではなかった。
まるで、コメディ。そう思えるほどにあまりに一方的な、圧倒的な展開。
貞彦が放つあらゆる術式を、羅刹は周囲を飛ぶ蚊でも払うかのような気軽さで破っていく。
「これが、羅刹……真正の神格」
羅刹という存在がいにしえの人々が敬い、畏怖を抱いた神という存在そのものなのだと、美樹はようやく理解していた。
同じ欠片とはいえ、ウズメとは、それどころか悦楽の無双の力をそのまま用いているはずの貞彦ですら比較にもならない。
貞彦と対峙して、その力に美樹は自分では勝てないと思った。
だが、羅刹はそもそも勝てる勝てないなどという概念など通用するものではない。
天災、否、それ以上の凶悪性を秘めた存在だ。
「流石は羅刹。相変わらず法外な能力の持ち主ね……」
羅刹の拳が振るわれるたびに大気が振動し、貞彦の体が虚空へと打ち上げられる。
「知ってたので? 彼女のことを」
「昔からの知り合いでね。まさかこの局面で彼女が現れるとは思っていなかったけど」
巨大な、あまりにも莫大な力が発現する。
一同がその存在を感知した時にはソレは放たれていた。
「ダメッ!」
放たれた巨大な力は、それまでのように完全に集束してはいなかった。
だからこそ、美樹は叫びを上げた。
羅刹の力は強大無比。しかし、少なくとも美樹が見た限りでそれはあくまで純粋な身体能力に起因するものだった。
それだけでは拡散する術式の放射を防ぐことはできない。
そう思っていた。
羅刹は焦りなどしなかった。右手に持ち替えていた両刃曲刀を左手へと持ち直し、腰を落とす。
「イイモノを見せたげる」
右足を後ろへと構え、刃を振り抜く。
あまりにも流麗な動作に美しさすら感じる中、それは起きた。
力。
ただ強い、力の奔流。
だが、その力の桁が違う。それまでのいかなる術式すらも、ままごとと思えてしまうほどのあまりにも強力な干渉力が広がっていく。
白にも見えれば黒にも見え、青にも赤にも見えるような、全ての概念を含み混沌とした視覚情報ではない光。
その強大な力は貞彦から放たれた干渉力を、はじめから存在しなかったものかのように消滅させた。
それは、美樹が知る限りのいかなる術式とも違った。そもそもが、美樹の知る術式という概念と同じ概念上に存在するものなのか、そう疑いたくなるほどに。
無数の、力という情報の奔流が、恐らくは羅刹によって集束されているであろうにもかかわらず、周囲へと暴力となって伝播する。
視覚が、聴覚が、嗅覚が、触覚が、味覚が、そして第六感までもが、莫大な情報量によって埋め尽くされ、その役目を果たさない。
混沌色の光が失われ、美樹が視覚を取り戻した時、彼女が見たのは羅刹が拳を振るい、貞彦が吹き飛ばされる光景だった。
太陽に近付き過ぎたイカロスのように。
あるいは、バベルの塔を築こうとした人々のように。
人は神に近付き過ぎてはならないと、そう告げるかのように。
それだけで、戦いは終わった。