第弐拾陸話『決意』


 無数の、とそう形容するのかすらもわからないほどの圧倒的な奔流。
 貞彦の意識はそれを捉えていた。
 それは負の感情だ。不可視であるはずのそれを、自身の精神の内部で疑似的に可視化しただけのこと。
 眼前で渦巻く憎悪、悲哀、慟哭。それらは全て、自分の中にあるものなのだ。
「……俺は」
 まっさらな意識が、本能的に記憶を探る。
 かつて修司と、皐月と共に過ごした日々が。
 そして、この数日の、物語のようで実際に体験した、非現実的な日々が。
 それらは全く違って、しかし同じだった。
『諦めるのか?』
 問い掛け。
 思い出すのは復讐の意思。
 暴虐を渇望する心。
「あぁ」
 もう一人の自分とも言える悦楽の欠片の問い掛けに、貞彦は静かに頷いた。
「いや、諦めるのとは違うな」
 苦笑し、
「俺は、手に入れるんだ」
 真っ直ぐに悦楽の欠片を、自らの一面を見つめ、言葉を紡ぐ。
「修司は死んだ。その事実はたとえ術式を使おうと覆りはしない」
 だから、と。
「俺はまた、手に入れる。アイツらのお陰で見ることのできた道を」
『喪失を忘却し、自分だけは幸せを得るだと? それは修司に対する裏切りではないか?』
「違うな」
 負けず、怯まず、屈することなく。
「俺は修司を忘れない。修司と皐月と、三人で過ごしたあの日々を忘れはしない。その上で、俺は新たな幸いを手に入れる」
 静かな、それでいて力強い決意の言葉。
「俺は、手に入れかけた幸いを自ら壊すところだった」
 忘れていた。幸福は、喪って初めて、その大切さに気付くのだということを。
「俺は過去に縋るのをやめる」
 息を吸い、
「過去を抱いて、その上で未来の幸いを求める!」
 瞬間、世界にヒビが入った。
 まるで世界が、硝子に描かれた絵だったかのように、全天にヒビは及ぶ。
 周囲を埋め尽くす感情の奔流が、苦しむように身をよじらせているように貞彦には見えた。
 眼前に立つ、自らの似姿も、また。
『……俺は、消えない。決して消えない。俺はお前だからだ。悦楽の欠片の力を得て個を持った、お前の負の感情だからだ』
「あぁ、消えないだろう。俺は聖人君子じゃない。そうなるつもりもない。だから憎しみや怒りを消すことなどできはしない」
 だが、と、貞彦は続ける。
「俺は幸いを見つけた。そこに『お前』は不要だ。俺の感情ならば、俺の中に埋もれておけ!」
 パリン、と。
 硝子が砕けるような音がして、悦楽の欠片は砕け散る。
 それを合図としたかのように、感情の奔流が、世界そのものが砕けていく。
 崩壊していく世界が、貞彦へと殺到する。荒れ狂う感情の暴流を捩じ伏せ、呑み込む。
 全てを呑み込んで、貞彦の意識は再びブラックアウトした。





「……っ」
 目を開けて、貞彦が目にしたのは一粒の水滴だった。
 雨でも降っているのか、と思い、すぐさまそれが間違いだったということに気付く。
 涙だ。
「皐月?」
「ひっくんっ!」
 名を呼ばれ、一瞬遅れて抱き締められたのだと理解する。
 しかし圧迫感も何もない。あるのはただ、抱き締められているのだろうという状況予測だけだ。
 全身麻酔に掛かったかのように身体に感覚がない。
「よかった……目が覚めないかと思った。よかった……本当に、よかった……」
「わかったから、離せ。頼むから」
「う、うん……ごめん」
 そう言って、皐月が離れる。
 起き上がろうとするものの、身体がそれについてこれず結局視線を動かすのみに留まった。
 視線の先には皐月、ウズメ、彩乃、美樹、そしてもう一人。
「……尚美」
 視線を落としたままの尚美が、その一言で顔を上げる。
 修司を喪ったことに対する哀しみがなくなったわけではない。
 その一因である尚美に対しての憎しみが消え失せたというわけでもまたない。
 ただ。
 彼女に対して、憎しみ以外の感情がないかと言えば、それもまた否なのだ。貞彦にとって、皐月にとって、大切な存在であったのもまた事実だ。
 と、そこに「ごめんなさい」という尚美の声が掛かった。
 驚きに顔を上げた貞彦は見る。涙に濡れた尚美の表情を。
「何故、謝るんだ」
「貞彦君があんなことをしたのは、私のせい、だよね。だから……」
 そんなことをさせてしまったことに、と。
 優しげな、それでいて寂しげな声で尚美は言う。
「理性を失ったことに対して、他の連中には悪かったと思っているが、少なくとも、俺はお前に対して行った陵辱行為を後悔などしていない」
「うん」
 尚美は貞彦の言葉に頷くだけ。
「何故、糾弾しない」
 問い掛けに、答えはない。
「俺は反省をしてはいない。修司の死に対して、当然の罰を与えただけだとすら思っているんだぞ? 何故だ? 理不尽な暴力と、何故糾弾しようとしない!」
 そこまで言って、ようやく尚美は口を開いた。
「……罰、だから」
 小さな声。
「理不尽なんかじゃない。修司が死んだのは……私が殺したようなものだから。だから、ごめん」
 一滴の涙。
「私が……もっと気を配っていれば、あんなことにはならなかった」
 涙を流しながら、尚美は言葉を続ける。
 自らの罪を。
「父さんと母さんが私と修司の成績を比べて修司の成績をよく思ってなかったことは知ってたのに」
 告解する罪人のように。
「あの子の調子が変なことに気付いて聞いた時、何でもないって言われても、無理にでも問い詰めておけばよかった。そうすれば、そうすればあんなことにはならなかったはずなのに……」
「な、に……?」
 違和感。
 そう、違和感だ。
 尚美の言葉には違和感がある。
 いや、違和感などというものではない。
 わかっている。そう、わかっているはずなのだ。
 だがそれを認められない。認めることは、それは自らの間違いを、許されざる間違いを認めることになるから。
「……ちょっと、待って」
 皐月もその違和感に気付いたらしい。
 貞彦に一瞬、視線を向けてくる。視線は問うていた。この続きを言っても良いのか、と。
 視線だけの問い掛けに、貞彦は頷いた。
「……尚美お姉ちゃんは、もしかして、知らなかった、の? あの頃、しゅうくんが暴力を振るわれていたことに」
 小さく、振り絞るようにして、尚美は頷く。
「知らなかった……私は、あの子のことを何もわかってなかった。気丈に振舞って、何もないよって意地を張って、それなのに、私はそんなことにも気付けなかった」
 貞彦は認める。否定などしない。言い訳もない。ただ認める。自らの間違いを。
 同じだ。
 尚美は同じだったのだと。
 修司を奪った仇敵などではなく、修司を奪われた、貞彦と同じ気持ちを抱いた被害者だったのだと。
「何、で……!」
 尚美の言葉が嘘だと、そんなことは考えもしなかった。
 元々、貞彦は信じたかったのだ。
「何でそれを言わなかった! そうだと知っていれば、俺は……!」
「同じだよ。いくら寮住まいで週末にしか帰ってなかったとは言っても、気付こうと思えば気付けたはずだもん。それなのに気付けなかった……本当は、私が気付いてあげなくちゃいけなかったのに……ごめん」
「違うだろ! お前が謝るのは、違うだろ! 怒ればいい! 叱ればいい! お前の方が近くにいただろうと! 私は何も知らなかったんだと! 自分は、云われのない凌辱を受けたんだと! そう言えばいいだろ!」
 浮き上がる激情に身を任せ、貞彦は声を張り上げる。
「……ありがとう。それに、ごめんね」
 それでも尚美は、感謝と、謝罪の言葉を告げる。
「何で、だよ……」
「言ったでしょ。君はいくら近くにいたからって、父さんや母さんのことは知らなかった。家の中も知ってた私の方が気付くべきだった。それに、私は嬉しいんだ」
「あんな凌辱を受けておいて、何を……」
「君が、まだ、あの子のことを、そんなに想ってくれていることが……私は本当に、嬉しい。同時に、そんな君に、あんなことをさせちゃってことが、本当に申し訳ないと思ってる。修司のことも合わせて……私は君に、謝ることしかできない」
「そんな、こと……ない!」
 いつの間にか、貞彦もまた、涙を流していた。
「全部、勘違いだった。同じだ。アイツに対する想いは、同じだ! それだけアイツを想っていたことに気付かず、お前が全部知っていたのだと思って、その上で見過ごしていたんだと思って、勘違いの恨みを抱いて、勘違いで凌辱を行って! 償えと言えば償おう。償うことなどできないとわかっていても、それでも償おう。一生を掛けて、償い尽くそう。だからもう、謝らないでくれ……謝るべきなのは……俺の方なんだから」
 感覚のほとんどない身体を、無理矢理に起き上がらせる。
 どうやっているのかなどわからない。そもそも、身体が起き上がれる状態なのかもわかりはしない。
 貞彦を起き上がらせたのは、意思。強い意思が、その身体を起こさせた。居住まいを正し、
「すまなかった」
 深く深く、布団に擦り付けるほどに深く、貞彦は頭を下げた。
「赦すよ」
 即答に近く答えた尚美の顔には、優しい笑みがあった。
「赦すよ。赦す……だから、君は謝らないで。私にそう言うからには……君だって謝らないで」
 尚美は皐月へと向き直り、
「皐月ちゃん、あなたにも……ごめんなさい」
「え? えっと……私が言いたいことは、全部ひっくんが言ってくれたから……それに、本当のことを知ったからにはやっぱり、勘違いしたままでいてごめんなさいっていう気持ちしかなくって……ほんと、ごめんなさい」
 と、そこに。
「……ごめんなさいごめんなさいって、状況的にわからないでもないけど、いくらなんでも謝りすぎで先に進まなくない?」
「ちょ、ウズメ! ここは感動の謝罪合戦させておくべきでしょ? いくら長いからって空気読もうよ!」
「梨緒、アンタも長いとか本音出てるわよ……」
「……ここは静かに立ち去っておくべきところだったと思うのですが」
 話の輪に加わっていなかった四名が、ウズメの言葉を口切りに口を開く。
「私は、君に謝られるのは嫌かな。悪くもないのに自分が悪いって言い張られても、嬉しくない」
「……それなら、俺も同じだ、結局のところ、決着はつかないだろう。お互いに相手の非を認めることはないんだろうから。ウズメの言うことももっともだ。それよりも、その……お前に、だな……色々と、あー、してしまったことに対して……」
「何でそこで言いづらそうにするのよ、今更。強姦でしょ、強姦。レイプ、陵辱」
「お前は、全く……まぁいい。実際その通りだからな。それに対しての罰はいくらでも受ける。これに関しては俺の完全な勘違いが生んだミスだ。謝罪のしようもない。自首もするが、それ以上の望みがあるのであればまずはそれを聞いてからにしよう」
 目を閉じ、いかな罰でも受け入れようとしていた貞彦に対して、
「言ったでしょ。罪も、罰も、ないんだって……君がもしそれで納得できないなら、私も君も、同罪だって思えばいい」
「言ったはずだ、お前には何の罪も……」
「じゃあ、その上で同じだって思ってよ。私は何とも思ってない。ちょっとまだ痛いけど、治してもらったからそんなに気にならないしね」
 あんな凌辱を受けておいて気にならないわけがない。
 そう思いつつも、貞彦は尚美の言葉を受け入れることにした。
 彼女の言う通りだからだ。
 同じ、そう、同じ。
 貞彦が貞彦自身に罪を感じれば感じるほど、尚美もまた、自分自身に罪を感じてしまう。
 ならば、少なくとも外向きには、自分を赦そうと、そう思った。
 修司の死を背負い続けることは、それを、修司のことを重荷として生き続けるのと同義だ。
 だから修司との思い出を忘れず、そして尚美への感謝を忘れずに生きていくことこそが重要だと、今の貞彦にはそう思える。
「わかったよ。何もなし、お互いに何もなしだ。だが最後に一つだけは言わせてくれ」
「何?」
「ありがとう」
 その一言に、尚美は涙を振り払って、笑った。


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