〜第参話『浅緋鶚』〜


 浅緋あさあけみさご
 青年の口から発せられた名前は、美樹を驚かせるに充分過ぎるほどの威力を持っていた。それは彩乃やウズメにとっても同様だったようで、二人が一瞬にして緊張の糸を張ったのを美樹は背中越しに感じ取った。
「浅緋、鶚君?」
「あぁ。そう言っただろう。珍しい名前だとは思うが……アマノウズメよりはマシだろう?」
「え、あ、うん。ごめんなさい。聞いたことのある名前だったものだから、驚いちゃって」
 美樹の言葉は嘘ではない。
 浅緋家といえば日本に住む術士であれば知らない者はいないと言えるほどに有名な術式の名家である。
 世界は枝分かれを繰り返し無数の異世界や並行世界を形作るが、そんな中で人工的に、術式の研究のために生み出されたのがこの世界であると言われている。真偽については怪しいし、どうやったらそんなことができるのか美樹には想像もつかないが、少なくともこの世界と、術式と科学が共存するという一点を除き極めて近似した世界が存在することは事実だ。
 その二つの世界は、元が同じであることから地理も基本的には同一であるとされている。美樹はもう一方の世界を訪れたことはないが、地理こそ同じでも風景はまるで違うということを聞いている。
 兎角、その両世界において、日本というものはどちらも存在する。その日本において、有名な術士の家系というのはいくつかあるが、その中でも有名な括りの一つが《四大家》というものである。西洋伝来の四大元素思想に基づき、それぞれの属性を精神の特異性として持つ血族を、そういったカテゴリに含んだ。
 地は陣原家、水は清水家、風は藤代家、そして火に相当するのが浅緋家である。
 その他、五行や四瑞に当て嵌めた名家の呼称も存在するが、そのいずれの場合も浅緋家は火や南、鳳凰などといった位置づけをもって名前が上がる。
 浅緋家がこの宮並に居を構えているということは知っている。術式の周知されていないこの世界よりも、もう一方の世界に居ることを好むことから四大家クラスともなるとほとんどがこちらの世界にはいないものだが、その特異的な例として挙がるのが浅緋家なのだ。
「そんなに有名なものか?」
 美樹に青年――鶚は苦笑しつつ首を傾げる。
 その対応に、美樹は違和感を受ける。
 本人が言った通り、浅緋という名は決して一般的なものではない。宮並の浅緋といえばその・・浅緋しかないはずだ。
「浅緋君は、兄弟は?」
 貞彦たちが会話に加わるつもりがないのだということを背中から伝わる雰囲気で悟り、美樹は一人、鶚と並んで歩いていく。その後ろに、二人の会話に耳を傾ける四人。
「兄が二人。どちらも一回りは離れているがな」
 術士の家系において、家族の全員が術士であるとは限らない。
 嫡子にのみ術式を教え、それ以下の子供たちには術士としての一切の情報を伝えない、ということもある。美樹に近いところであれば蒼海家がまさしくそれで、弟の瀞は術式について一切教えられていないはずだし、千堂家でも、梨緒に隠してはいないものの、術士としての技術を学んでいるのは美樹だけだ。
 浅緋ほどの大家では後継者一人にしか伝えないということはないだろうし、もし隠すにしても容易ならざるものだとも思えるが、ありえないという話でもない。
「それがどうかしたか?」
「特にどうっていうわけではないんだけど。有名な家だと長男は大変なんだろうなって」
 術式を知っているかどうかも怪しい相手に対して「術士の名家である」などとは言えない。鶚が術式について知らないのであれば、それは浅緋家という家の方針によるものだ。自分が口を出せることではない。
「兄達は好きでやってるんだから俺の知ったこっちゃない。それにしても……」
「どうかしたの?」
 鶚が自分を、あるいはその後ろにいる貞彦たちを見ていることに気付き、美樹は首を傾げる。
「変な連中だ、と、改めて思っていただけだ。他意はない」
「そ、そう……」
 否定することもできず、美樹は苦笑を浮かべることしかできない。
「で、ここがスーパーだ。他にもいくらかあるが、ここが一番品揃えは良いはずだ。少なくとも生活必需品程度ならたいがい揃う」
 気付けば、目当てのスーパーに辿り付いていた。
 店そのものはそれほど大きいというわけではなく、見覚えのない名前である。
「ありがとう。浅緋君」
「別に構わん。俺も散歩していただけだからな。じゃあまた、大学かどこかで会うこともあるだろうよ」
 そう言い残すと、鶚は美樹の返答も待たずにさっさと別の方へと歩き去っていった。
 鶚とのやり取りは短かったものの、美樹は鶚に対して決して悪い印象を抱いてはいなかった。
 礼儀正しいというわけではない。むしろ粗雑といってもいいくらいだ。少なくともその態度だけを見て良い印象を抱くようなものではなかった。この宮並にきて、初めて出会った同級生であるとも言える。不思議な縁のようなものを感じているのもある。
 ただ、それ以外にも何がどう、ということはできないまでも、彼からはどこか貞彦に近いものを感じていた。これからの大学生活において、自分と、そして皐月やウズメ、彩乃や貞彦とも、きっと良い友人関係を築くことができるだろう、と。
「大学生活がもっと楽しみになった、かな」
 誰に言うでもなく呟き、振り返る。
「それはそうと、なんで皆、話そうとしないの?」
「……特に何というわけでもない。ただ、お前が話していてそれで済むならわざわざ会話に加わるまでもないと思っただけだ」
「あ、サダヒコ、もしかして妬いてるの? ミキが会ったばかりの男の子と仲良さそうに話してて!」
「何を阿呆なことを言ってるかお前は」
 ウズメの言葉にもしかして、と淡い期待を抱くほどの間も開けず、一蹴される。
「浅緋の人間と聞いたらどうしても気後れしてしまいまして」
 彩乃はそう言って、軽く顔を下げる。
「咲岡家の人間として、術士としての誇りの上に、などというものではなく、純粋に一人の術士として、浅緋家の名は大きいものですから」
 確かに、これまで術士の家系の者として教育を受けてきた彩乃からすれば期せずして恐縮してしまうのもわかるというものだ。
 貞彦によって、誇りという血の呪縛から解放された彼女はしかし、その上で、浅緋という名の大きさを認めているということだ。
 千堂家は浅緋と並ぶとは言わないまでも、それに準ずる程度に位置づけられる名門寒凪家の傍流ではあるが、千堂家そのものの規模は小さいこともあってか、術士としての家系というものに対する意識は強くはない。だが同時に、術式は一般に認知されるスポーツや学業よりも、更に輪をかけて才能の存在が大きな比重を占めるということも知っている。有名な家系の術士は、有名である由縁が間違いなく存在する。
「……そうは言ってもね。学校はじまったら一緒になることだってあるんだから、苦手意識持ってもなぁ、とは思うけど」
 もちろん、貞彦たちのように、大学において常に一緒にいるというわけにはならないだろうし、たとえ同じ授業をとっていたとしても、積極的に関わる必要性があるというわけでもない。ただ、美樹個人の気持ちとしては、一緒に大学生活を過ごしていけるといいと、そう思っていた。
「隠していただけなのか、それとも本当に知らないのかはともかくとして、術士として接してきていたわけではありませんし。私の方が礼を失していましたね。次に会ったときにでも謝罪しておきます」
 美樹の言葉に最初に反応したのは彩乃だった。
「いや、多分謝るほどのことじゃないんじゃないかな……」
 彩乃の真面目すぎるともいえる言葉に、美樹は苦笑する。少なくとも無礼さで言えば鶚も大したものだったと美樹は思う。
「浅緋、というのは有名なのか?」
 その名前を知らなかったらしい貞彦が問い掛けてくるのを、美樹は頷きで返す。
「日本の術士といえば最初に名前が挙がってもおかしくないくらいの名家だよ。彼がそれを知っていたのかどうかは、私には分からないけど」
「どこか、しゅうくんに似てたね」
 静かな、しかし嬉しそうな声は皐月のものだった。しゅうくん、というのが皐月と貞彦の共通の幼馴染であり、尚美の弟、朝倉修司のことを指すことは美樹も聞いている。貞彦との間に自分の知らない過去の時間があることに、皐月に対して小さな嫉妬を覚えることがないわけではない。
 美樹には貞彦の内心はわからない。彼が数ヶ月前の一件で、朝倉修司に対しての思いをどのような形で自分の中で決着させたのかも知らなかった。貞彦も、皐月も、尚美も、もちろん他の三人も、そこに触れることは一切なかったからだ。その話題がそれほどにデリケートなことだという認識は全員にあった。
 突然出た名前に、貞彦が一体どんな反応を示すのか、戦々恐々と美樹は視線を移すと、
「あぁ。そうかもしれないな」
 貞彦は頷いて、小さく笑った。
 今の貞彦の言葉や表情で、少しだけ分かった気がする。過去を哀しむのでも、忘れるのでもなく、胸に抱いて生きていく。それが貞彦の結論なのだろうと、美樹はそう思った。
 そして、そうであるならばきっと、貞彦は彼とも仲良くなることができるだろう、とも。
「んー」
「どうしたの?」
 一人唸っているウズメを見て、美樹は問い掛ける。
「んー、とね。苦手意識ってわけじゃあないんだけどね」
 その言葉が嘘であるとは美樹は思わなかった。
 彼女に限って、浅緋家という名に重圧を感じているはずもない。彼女が家や血統というものに興味がないことは連帯生活の中で美樹もわかっているし、それ以前に彼女自身が悦楽の無双の欠片である。こと才覚という点においては、どれだけ有能であろうと、所詮は人類に過ぎない術士の名家とは比べものにならないものを持っているのだから。
「ただ、さっきの彼。浅緋鶚、何だかどこかで見たことがあるような気がするっていうか……私に近いもの匂いを感じるっていうか」
「それは《欠片》であるということか?」
「わからない」
 話に加わってきた貞彦の言葉に、ウズメは首を横に振る。
「本当にただの雰囲気だから、あんまり深く考えないでね。ただ、もし彼と関わるんだったら、少し用心くらいはしておいた方がいいと思う」
「そんな同級生に対して用心なんてしてたら気疲れしちゃうって」
「ミキの言う通りではあるけどね。まぁ、頭の片隅くらいには置いといてよ」
 ウズメの言葉はある意味で正しく、そしてある意味で決定的に間違っていた。
 彼らは、ウズメ自身ですらも気付いてはいなかった。無双の欠片の持つ《直感》というものの重要性を。
 そしてそれを軽視した故に、その報いが訪れるのは、まだしばらく先の話である。


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