〜第伍話『宣戦布告』〜
見上げた空は黒と金。見事な満月と星々が宮並の街を照らしている。
街灯の数は善稜のそれと比べてぐっと少ない。人工光の薄いがゆえに、星はその本来の輝きを一層美しく魅せていた。
「しかし、思っていたよりも手こずるものだな」
貞彦の言葉に頷きながら、公園におかれた大時計へと視線を移すと、時計は既に零時半を示している。
すっかりと夜も更けた公園のベンチに腰を下ろして、美樹は携帯電話へと目を向けた。
ちなみに尚美は当然として、皐月と梨緒も自宅で留守番だ。
とは言っても、律儀な皐月は別として、奔放な梨緒はもちろん、明日も仕事のある尚美も既に寝入っていることだろう。
美樹の携帯には、皐月からの「お夜食用意しておくね」という簡素な、しかし確かな心遣いを感じさせるメールが届いていた。親友の気遣いに感謝しつつも、負けられないな、という思いが浮かぶ。
「本当に大変なのは遭遇してからだと思うけど」
辻斬りという、半ばどころか完全に法的ブラックゾーンにあることを貞彦が決め、その相手を探して夜の宮並を彷徨うこと一時間半。
術士はもちろん、それ以外の一般人に関しても、まるで、と言っていいほどに出会うことがなかった。
術式の存在を術式を知らない人間に対して秘匿するためには好都合なのかもしれないが、術士を探している身からすると困ったものであった。
ふぅ、と、溜め息を吐き出したのは貞彦。その顔にはかすかに疲労の色が見える。その理由は美樹にはわからないでもない。肉体的な疲労という意味では大したことはない。問題は一向に見付かる様子がない、という精神的な疲労によるものだ。
「術士だからって別に夜にばかり出歩く必要もないんだよね、よく考えたら。夜行性なわけでもないし」
超常の力を操る術士とはいえど人の子だ。昼間は学生は学校に通っているだろうし、社会人は会社に行っていることだろう。であれば、夜は自宅で寝ているというのはある意味当然の帰結だ。
むしろ、今までそれを考えなかったことの方が不自然だとすら思える。自分とて、何もなければ夜は眠っているはずなのだから。
「確かにそうですわね……人知れず動くということにばかり考えを向けていましたが、吸血鬼じゃあるまいし昼夜は関係ないのでしょうか」
「この街なら吸血鬼もいそうだけどねー」
あはは、と楽しそうにウズメが告げる。そんなことを言っていて本当に吸血鬼が現れたらどうするのか、と思いつつも口には出さない。もし出てくれば出てきたで、貞彦が戦う対象を見つけたと喜ぶだけだ。
「夜の方が術士ではない人間の出歩きが少なくなり、術士を見分けやすくなると思ったが……」
「私だって今まで普通の学生と同じライフサイクルしてたよ。術士だから夜に動く、っていうのはどうなんだろうと思う」
「確かにな……だが、だとしても他に手があるわけでもない。地道に続けていくしかないだろう」
「まぁ、それはそうだけど……」
霞に誰か術士のアテがないかと聞いてみる、ということも考えるが、そもそも彼女との連絡を取ることが出来ないことに気付く。ハイテク志向の割に、未だ携帯電話一つ持っていないというのだから彼女の感性は今一つよくわからない。
そうなってしまうと美樹にもアテはない。貞彦の言う通り、地道に誰か術士と出会うことを願って深夜の徘徊を続けるしかない。
「ここは一発ドカーンと巨大な術式で公園にクレーターとか作ってみて、集まってくる術士を迎え撃つとかどうかな?」
「……成程、それでしたら確かに術士を効率よく集めることができるかもしれませんわね」
「いやいや成程、じゃないから。絶対ソレはマズいから。ウズメはそういうこと冗談でも言わないの。貞彦君は本気にしないでよ?」
後ろで少々、どころかかなり物騒な会話を続けている二人の言葉に呆れつつも、念のために釘を刺しておく。
「いや、流石にそんなことはしないが……」
歯の奥に物が詰まったような切れの悪い言葉から察するに、いよいよとなればそれを実行しようと思っていたのだろう。
一体どうしてやろうか、と思いつつも、生まれるのは苦笑。
楽しい。口には出さないが、迷いなく美樹はそう思う。貞彦がいて、ウズメがいて、彩乃がいる。家に戻れば皐月も、梨緒も、尚美も。その
「やぁ」
唐突に、声。
「え……?」
談笑を続ける四人に声を掛けてきたのは、どこから現れたのか、一人の青年だった。
年頃は自分たちと同程度か、やや上といったところだろう。際立った特徴こそないものの、端整といって差し支えのないその顔立ちは、少なくとも美樹の記憶にはない。
後ろには姉妹だろうか、よく似通った雰囲気を持つ少女が、まるで主人に傅く侍従のように佇んでいる。
「何で、ここに……」
信じられない、と言わんばかりに立ち上がったのはウズメ。その顔に浮かべるのは驚愕と緊張。
その反応だけで二つのことがわかる。一つは、青年がウズメの知り合いであるということ。もう一つは、悦楽の欠片たるウズメをもってして、緊張を与えるほどの存在であるということ。
ウズメの来歴についてはほとんど何も知らないが、羅刹と知り合いだったことからしても、自分よりも術士の世界において顔は広いのだろうと思う。
青年は美樹たちを一瞥する。舐め回すような、好色な視線はかつてウズメからも感じたことのある不快な感覚。
思考する前に、美樹は立ち上がっていた。思考を加速、いつ戦闘がはじまってもいいように身構える。
あるいは、と。眼前の存在の正体について、一つの予測を得る。確信はないが、恐らくそうであろうと。
そして、だとすれば、ウズメの問うたように何故ここにいるのか、とも。
「初めまして、と言うべきかどうかは微妙なところだが、一応そう言っておこうか」
「……何者だ?」
金縛りにも似た硬直を破って、貞彦は青年に向けて問う。
「
貞彦が放った問い掛けに対する回答は、しかし青年ではなく、ある意味では美樹の予想通りに、ウズメから返ってきた。
悦楽の欠片の第二片、信楽。その名前は美樹も当然の如く耳にしたことのある名だった。
「紹介に預かった、私は信楽と言う。妹が世話になっているようだ。後ろの彼女たちは柊葵にその妹の茜。以後、見知りおきを」
慇懃な態度で信楽は名乗り、紹介を受けた少女たちは恭しく頭を下げる。
昼間に出会った浅緋鶚の浅緋家と比べても尚、更に数段上の知名度だ。浅緋があくまで家単位で有名であるのに対し、信楽は個人だ。
過日、美樹たちを救った超越者たる
ウズメが知っているのも当然だ。悦楽の第三片たる彼女からしてみれば、兄にあたる存在と言ってもいい。彼女自身、以前にそう言っていたことを美樹は覚えている。
「何か用?」
しかし、ウズメの言葉はあくまでも硬い。
日頃、身内に対して投げかけるような弾んだものでもなければ、誰かをからかうときのような人を食ったものとも違う。畏怖と敵意の交じり合った異質な声。
「そう尖らないでほしいものだ。水入らず、というわけにはいかぬが久しい兄妹の再会だというに」
「答えて。私に何の用?」
「否、否だ。お前に用はない。あるのは少年……君だ」
「俺、か?」
脈絡もなく話の中心へと投げ込まれた貞彦は、眉を潜め、身構える。
相手はあの羅刹に匹敵する本物の神格。直接相対しているわけではない美樹すらも、その存在に立っているだけで精一杯だ。
そんな相手を眼前にして、それでもしっかりと信楽を見据えている貞彦の姿に素直な感嘆と賞賛を覚える。だが、貞彦の肩が微かに、見間違えともとれる程度に震えているのを美樹は見逃さなかった。
「何の……用だ?」
短い言葉の中に、一度の息継ぎ。口の中が乾燥しているのだろうと、美樹は自分の口内で起きていることからそう予想する。
「用向きは……嗚呼、簡潔に告げた方がよかろうな。詰まりは、
告げられた言葉に貞彦は一瞬、表情に驚きを浮かべるものの、即座に意識を切り替えたのか、その周囲に術式障壁が展開する。
初めて見た時とは比較にならないほどに洗練された高速での術式展開は、貞彦が宮並に来るまでに積み上げた短い、しかし濃密な鍛錬の成果を示していた。
しかし、同時に美樹は思う。それでは勝てない、と。
そもそもの存在としての格が、桁が、まるで違う。どれほど人が力を得たところで神には勝つことができない。いや、それ以前に戦う、という概念すらも発生しない。あまりに違い過ぎるからだ。羅刹に対して感じたそれと近しい思い――畏怖――を、美樹は確かに眼前の欠片からも感じ取った。
「安心し給え。言ったろう、宣戦布告、と。此度は挨拶のみで済ませる
貞彦は動かない。美樹も彩乃も、ウズメさえも動かない。あるいは、動けないのか。
「宜しい」
信楽は重々しく頷くと、オペラ歌手を思わせる動きで両手を広げる。
「これをもって
朗々と宣誓を終えた信楽は、一切の警戒を感じさせない動きで踵を返し、歩き出す。
相手が警戒なく背を向けている今が好機なのは間違いない。術士としての経験も、それを否定はしない。
だが、その上でわかるのだ。好機の今であっても尚、今のままでは決して勝てない、と。
恐らくは信楽も、それを確認していたのだろうと美樹は思う。好機と見て、戦局計算も出来ずに仕掛けるほどの愚か者なのか、それとも勝てない勝負には乗ることの出来ない
最後に一度、信楽は振り返る。その顔に浮かぶ表情は、満足。何をどう解釈したのかはわからないが、貞彦の選択は信楽の眼鏡に適ったのだろう。
「去らばだ」
そう告げた声が耳に入ってくるときには既に、信楽の姿はそこにはなかった。
「悦楽の無双の第二片、信楽……」
これから相対するべき