〜第陸話『遭遇』〜


 大学への初登校を終えた貞彦たちは、今宵も今宵とて、宮並の夜道を彷徨い歩いていた。
 貞彦は進学そのものを考えておらず、美樹や彩乃については推薦が決まっていたこともあって、進学への意志を決めた時期が時期であるために、オープンキャンパスというものには一行のほとんどが参加したことがなかった。唯一、何度か参加していた皐月にしても、館森大のオープンキャンパス自体は訪れたことがない。
 そんなこともあって、マトモに館森大を訪れるのは受験以来二度目となったわけだが、高校までとはまるで違う方向の活気に溢れていた。
「ふぅ……」
 稽古を終えたあとのそれに似た、充実した疲れを感じ、美樹は小さく息を吐き出す。
 美樹たちはサークルからの勧誘や、貞彦に対する処々の殺人的な視線を受けつつも、ひとまずの初登校を終えた。
 とりあえずは剣道部にでも入部しよう、と美樹は思っている。入学前から剣道部に入ろうと思っており、軽く見学をすつだけのつもりだったが熱心な勧誘に、つい経験者であると口を滑らせてしまったことからあれよあれよと防具をつけられ、練習試合をやる羽目になってしまった。
 結局、練習とはいえ試合で手を抜く気にもなれず、本気でやったところ、立て続けに二本先取で勝ってしまったのだが、その相手方というのが新二年のレギュラーだったこともあり、勧誘の度合いが断りきれないくらいになってしまった。まだ少し見ただけなので詳しくはわからないものの、居心地の良さそうな雰囲気というものを感じ取っていた。
 他の皆はまだ、そういったものを決めてはいないようだったがいずれはどこかの部活に参加することになるだろう。一足先に高校のはじまった梨緒は、早速生物部に入部したと聞いている。毎日、夕方遅くまで部室に入り浸っているらしく、帰りが遅い。何にしても、楽しんでいるようで何よりだと思う。一人だけ年齢がズレているために疎外感を与えないかどうかというのは美樹にとっての気がかりの一つだったのだが、様子を見ている限りその心配は杞憂だったらしい。
 楽しいだろう、と、大学生活を思い描き、期待を持つ。だが同時に不安もある。
 昨晩の、悦楽の欠片が第二片、信楽との邂逅と宣戦布告は美樹に、貞彦に、ウズメに、彩乃に、それぞれ表立っては言わないものの、焦燥を感じさせるのに充分なものだった。
 無双かみの欠片。
 人間をはじめとした、肉体を基盤として存在する物質基生命体とは異なり、霊的存在である精神を基盤とする精神基生命体の一種、無双。
 術式とはあまねく生物が持ち備える精神の干渉力を外界へと行使することで様々な現象を励起させる技術。その源となるのは精神である。
 物質基生命体よりも精神基生命体が術式を得意とするのは必然。
 精神基生命体とは物質的な肉体を持たず、霊質のみで存在する霊妙な存在のことを指す。一般に精霊や妖精などと呼ばれるものはそのたぐいであるし、一部の強い念を持って死んだ物質基生命体が精神基生命体として、霊になることもある。
 付喪神のような例にあるように、精神基生命体が物質に憑依することで擬似的な物質基生命体となることもある。その依代として物質基生命体が選ばれることもある。精神基生命体に意識を乗っ取られたものは悪魔憑き、短時間的にその力を引き出すものは潮来イタコなどと様々な呼称があるが、総じてそれらは憑巫よりましと呼ばれる。
 憑巫の力は凄絶の一言に尽きる。物質であり霊質であるという矛盾じみた存在であるがため、その両者共に対して十全な干渉を行うことが出来る。
 通常の精霊、妖精は物質として既に存在しているものに憑依することで物質への干渉の足掛かりとするが、常識の埒外に存在する無双は、その行程を不要とする。彼らは自ら形成した肉体に憑依することで、物質基生命体の真似事をしているに過ぎない。
 その規模縮小ダウンスケール版ともいうべき欠片もまた、仕組みは全く変わらない。
「……そういえばウズメも欠片だったっけ」
 そこまで思考し、それを語ってくれたウズメのことを思い出す。
 無双についての知識は、八柱しか存在しないために不明なことこそ多いが、そのほとんどが術士に周知されているのに対し、欠片という存在については知られていることがひどく少ない。ウズメや羅刹などとの出会いを通して、気になって調べてみたことはあるものの、情報はほとんど出てこない。そのため欠片についての知識はほぼウズメからの口伝である。
「え、もしかして忘れてたの?」
「いや、忘れてたわけじゃないんだけどね」
 すぐ近くにいて、一緒に暮らしている存在が実は人間のフリをしているだけの霊の一種であると考えると、不快感のようなものがあるわけではないものの、どこか違和感を覚えてしまうのは仕方のないことだろう。
 貞彦はウズメの力を貸与されている、という状態にあるのだと美樹は聞いている。憑巫と呼んでいいのか、あるいはまた別の定義があるのか、そういった方向に対する知識に乏しいためにいまひとつわからないものの、その精神の性能スペックの高さは折り紙つきといえる。ものの数ヶ月で、充分に術士として戦えるレベルでの力をつけられたのは彼自身の努力もあるものの、彼の中に存在する悦楽の欠片が多分に影響しているのは間違いない。
 過日の騒動の際、最後に起きた貞彦の暴走時などに至っては、制御できていないながら悦楽の欠片であるウズメでさえも手に負えないほどの力を発揮していた。
 もちろん、制御如何についてはどうともしがたい上に、それだけの力を引き出せたことがあれ以来一度もないのだが、ある程度の術士が相手であれば、その力をもってすればどうとでもなる。
 だが、相手が信楽となると話は別だ。
 悦楽の欠片の信楽といえば、放縦の欠片の羅刹らせつ、放浪の欠片の蜉蝣かげろうと並んでこの・・世界における物質基・精神基併せての最強の生命体として広く知れ渡った存在だ。当然、上に目を向ければ無双のような更なる常識外の存在はいるものの、彼らはより高次の世界の存在であるため、この・・世界の存在であるとは言えない。
 問題は、あの・・状態の貞彦を難なく止めた羅刹と同格に数えられる存在である、ということ。 
 今の貞彦では、アレには決して勝つことが出来ない。
 幸いなことに悦楽を好むあの存在は、物事を楽しもうとする気質があるとウズメは言う。そのためには、自分の多少の不利もやむなしと見ると。
 もし、貞彦に付け入る隙があるとすれば、それはその余裕だ。元が悦楽の無双という同じものをソースとしている貞彦であれば、そこに届かせることは果てしない困難かもしれないが、全くの不可能ではないはずだ。
 あのときの暴走状態を制御できるようにし、その上で力の上限を更に高める。そこまでしてようやく、ハンディキャップありの信楽に勝てるかもしれない可能性が出てくる。
 そのためにも、多少の荒療治は致し方ない。最早、辻斬りに反対している余裕もない。ひとまずはこれを続けながら、他の方策がないかと考えることにしたのだった。
「あれ? あそこにいるのって……」
「女の、子……ですわよね?」
 視線の先、驚くほどに整った美貌に小柄で華奢な体つきに白磁の如き肌は、どこか人形のよう、という表現が相応しい。
 腰にまでかかるほどの黒の長髪もあって男性とは見間違いようもない。女性なのは確実だが、少女でいいのだろうか、と美樹は思う。彩乃が疑問符を残したのも納得できる。外見だけでいえば梨緒と同じくらいにも見えるが、その落ち着いた佇まいからは自分よりも年上なのではないかとも思えてくる。
 少なくとも、こんな時間帯に夜道を歩き回っていて自然に思えるような容姿ではないのは確かだ。ウズメが小さく頷いて、貞彦に目配せ。術士であると判断したのだろう、貞彦は一歩前に出る。男性としても平均よりもやや身長の高い貞彦と小柄な少女の対峙ゆえに、自然と貞彦からは見下してしまう格好となる。
 既に思考は臨戦態勢に移行しているのか、無意識中に放出された余剰干渉力が、うっすらとした燐光となって貞彦の周囲で明滅を繰り返す。
 そんな、常識の範疇であれば異常な現象を見ても少女は動じない。貞彦の視線に真っ向から対峙している。もし術式のことを知らない一般人であるとすれば大した剛毅さだ。
「一つ、俺の挑戦を受けてはもらえないか?」
「お断りします」
 少女の答えは早かった。問い掛けが終わり切るかどうかといった瞬間での即答。
「考え方そのものは、あながち間違いじゃないでしょうね。こと東日本でいえば宮並の術士のレベルは最高峰だから。実戦を積むのにここ以上の場所はそうそうない」
 答えは拒否だったものの、美樹は一つの安堵を得ていた。言動からして、彼女が術式に関わる人間であることはまず間違いない。これまで数日の間、出会うこともできなかった術士にようやく出会えたのだから。
 もし術士でなければ、ウズメがどうにかして術式で記憶を消すということになっていたが、そんなことをする必要もなくなったというわけだ。そもそも、他者の記憶への介入は精神に厳重に守られるために難しい。悦楽の欠片という、そういった方向に特化した欠片たるウズメでさえ「術式抵抗力の低い一般人くらいなら問題ないよ。高位の術士だとか、一般人でも精神抵抗性の高い人になってくると厳しいけどね」とやや弱気な発言をするくらいなので、万が一のことも考えて、そういったことはしないにこしたことはないと美樹も思っていた。
「アンタ、名前は?」
「人に名前を聞くならば、まずは自分から名乗るのが道理では?」
 貞彦が問うと、少女はマナーの悪い生徒を叱る教師のように、静かな言葉で嗜める。
「……失礼した。俺は染ヶ谷貞彦。後ろにいるのが天野細女、咲岡彩乃、千堂美樹だ」
「千堂、美樹……?」
 呟き、首をかしげると、少女は美樹を上から下へと鑑定するかのようにじっくりと見つめる。その視線が平均よりも高水準にあるであろう美樹の胸の位置で止まり、自分の余分な脂肪の一切ないように見える平面へと移り、そして顔へと移る、という動作を数セット繰り返してから何かを納得したかのように頷いた。
「なるほど、ね。確かに」
 少女は何故か苦笑して、
「良いよ。その挑戦、受けましょう」
 前言を撤回した。
 どうして、と問い返したい気持ちはあった。千堂家は術士の名家の一つに数えられる神薙家の傍流にあたる一派だ。神薙本家は有名ながら、千堂の名は知れ渡っていると言えるものではない。かと言って、美樹の個人的な知り合いかといえばそれもまた違う。美樹はこれまで術士としてどこかに出たことはないし、何より見覚えがない。自分が記憶力の良い方ではないと自覚はあるものの、彼女ほどに印象の強い相手であれば一度会って、言葉を交わしたことがあればまず忘れないはずだ。
「そういえば、名前がまだだったね。私は……」
 何かに思案するような一拍の間。その後に、少女は笑みを浮かべて口を開いた。それまでのものとはどこか違う、優しげな笑み。
蒼海そうみしずく
 誇らしげに、少女は名を告げた。聞き覚えのある姓と共に。


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